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皮膚の破れ

 今回は古い文献です。 Bick, E. (1968) The experience of the skin in early object relations. IJP, 49, 484-486. 古い文献ですし、短い論文ですが、付着的世界を感得する上でとても示唆に富む文献です。ご存じの方も多いかと思いますが、一応、押さえておきましょう。 ***************************************** 皮膚の根源的機能について。パーソナリティの各部分は最も原初的な段階においては、自ら一つにまとまることができないので、受身的に一つに抱えてもらうことが必要であり、これが皮膚の境界機能である。この機能が対象から取り入れられて初めて、内的空間と外的空間という空想が発生する。クラインが述べたような原始的な分裂と理想化が始まるのはここからである。それまでは自己の内的空間という概念は発達しておらず、したがって投影同一化は留まるところを知らず、同一性は混乱し続ける。 心的皮膚の形成段階においては、無力にバラバラになっていくという受動的な破局体験と、発達の一過程における防衛操作として統合を解体する迫害‐抑鬱体験との間を行ったり来たりする。乳幼児発達に沿って言えば、この段階のコンテインは感覚的な注意を集めることであり、光‐視覚、声‐聴覚、匂い‐嗅覚などが焦点となる。乳首をくわえ、声をかけられながら抱っこされるという体験が最適な対象の経験となる。心的皮膚機能の取り入れがうまくいかないと、第二の皮膚が形成され、これによってまとまりを保つのが偽自立である。 乳児観察事例。いくらか未成熟なところのある母親。赤ちゃんの生後12週までには皮膚コンテイナーの機能がだいぶできあがり、それに伴って、母親は赤ちゃんと接触していることに不安が少なくなり、赤ちゃんが生きていることを確かめるために興奮させるという必要性も減っていった。しかし、ここで転居があった。母親は新居に馴染めず、赤ちゃんから引きこもった。赤ちゃんには身体的問題が頻発した。父親も病気になり、母親は仕事に戻ることを決めた。そこで母親は赤ちゃんに偽自立を迫った。離乳トレーニングを進め、バウンサーを導入し、赤ちゃんが夜泣きしても応えなくなった。そして、攻撃的になることで生きていることを示すよう、赤ちゃんを刺激し焚きつけ...

精神分析概念の使い方、変わらぬものの機能

 今回取り上げる論文はこちらです。 Frogel, S. (2020) The will to truth, the death drive and the will to power. The American Journal of Psychoanalysis, 80, 85-93. 「真実への意志、死の本能、力への意志」というタイトルです。フロイトの死の本能をニーチェの力への意志から読み直そうという論文です。死の本能はとかく敬遠されがちな概念ですし、様々な読まれ方をしています。これもその一つでしょう。これをきっかけとしてそれぞれの実践家が死の本能との向き合い方を模索できるといいですね。ではまず要約です。 ****************************************** 哲学は伝統的に、人は真実を求めるもの(真実への意志)であると考えてきた。生きることには、適応のためにも嘘や欺瞞や偽装はつきものであり、不変の真実は神の世界に属するもので、結局のところ、死後に、あるいは生を超えたところで、はじめて到達できるものとされてきた。 フロイトの生の本能についても、快原理からスタートして現実原理が必要になることを説明できず、死の本能を想定した。有機的な生は複雑で混沌として変化に満ちている。現実原理が求める秩序と安定は変化がないことであり、無機的な死の世界である。すると、生の目的は死であるという矛盾した結論にたどり着いてしまう。 無機物は有機物に先行しており、単純な状態は複雑な状態に先行している。フロイトも快原理が目指しているのは快の持続ではなく、緊張状態が解かれて平衡状態に戻ることであることを考察して、死の本能の方が生の本能よりも基礎にあると考えざるを得なくなった。無機的で、単純で、変化がなく、同じことの繰り返しの反復強迫の世界が、生の基礎にあると言わざるを得ないのではないかと。生の活動とは、不変の真実=死の一時的中断でしかないのではないか。 ニーチェは、真実への意志が基本的な前提となっていることに疑問を呈した。不変の真実を求めるのは、人間が複雑さや変化に耐えられないという弱さゆえであり、真実への意志の本質は、力への意志であると考えた。 死後に到達する真実という発想は形而上学的なものであり、生物学的な観点からすれば、死と真実は結びつかない。不変性...

可能性を探り、ベストを尽くす

 今回取り上げる文献はこちらです。 Harris, M. (1971/2011) The Place of Once-Weekly Treatment in the Work of an Analytically Trained Child Psychotherapist. Journal of Child Psychotherapy, 3(1), 31-39. in Harris, M., Bick, E. & Williams, M. (2011) The Tavistock Model. Ch.4.  「精神分析の訓練を受けた子どもの心理療法士の仕事における週1回治療の位置づけ」といったタイトルでしょうか。文献の中では週5回の分析の恩恵に浴している訓練生が週1回の治療しか子どもに提供できない罪悪感などにも触れられていますが、今や私たちは週1回でも「高頻度」と言えるような時代を生きています。また、治療者側があまり訓練の恩恵に浴していない日本の状況では、何が投影されるのでしょうか。置かれた状況や時代によって、一つの設定の意味は変わってくるでしょう。それに応じて設定をどう活かすかという技法も変わってくるかもしれません。ではまず要約してみましょう。 ***************************************** 自分たちは週5日の分析を受けているのに、ニーズの高い子どもに週1回しか提供できないとき、罪悪感が引き起こされる。しかし、実行可能かどうかを考えずに、強迫的にすべての子どもに平等に高頻度の治療を提供しようと考えるとしたら、そこには未だ私たちの中で働いているエディプス葛藤や同胞葛藤が関わっているだろう。その罪悪感を埋め合わせようとして、週1回の治療で理論的な解釈を多用したり、過度に能動的になったり、セッション外で得られた情報を早計にセッションに持ち込もうとするかもしれない。あるいは逆に、週1回程度でなにか起きるわけではないと座して諦め、あとは環境要因次第で多少よくなるかどうかだと考えることで、自分たちが不適切なことをしているわけではないと思おうとすることもある。あまりにも多く週1回のケースを抱えてしまうと、難しい子どもばかりのクラスを担任する教師のように、一人一人に十分な注意を注げなくなる。セッション間隔が空くと、解釈...

臨床に立ち返ること

 今回取り上げる文献はこちらです。 Rosenbloom, S. (2019) Working Through: Reflections on the Patient's Contribution to the Analytic Process. Canadian Journal of Psychoanalysis, 27, 310-321. 「ワーキングスルー:分析過程に対する患者の貢献についての省察」といった感じでしょうか。教科書通りではないという怖れから、本当の治癒要因が公表されないという問題は日本だけではないようです。ではまず要約してみましょう。 ***************************************** 精神分析は患者自身が進めていくものだという考えは新しいものではない。本論では、分析においてもやはり患者は自分の人生に目鼻を付けようと一生懸命だということ、そしてそのときの心的プロセスに着目してみたい。ワーキングスルーという概念は、解釈による驚きと洞察という分析体験とは対照的に、何度も何度も同じことを繰り返し、少しずつ、ほんの少しずつ積み重なっていく分析過程というものに焦点を当てている。患者自身が繰り返し自問し、自分自身で変わっていくプロセスを、分析家は待つことができなければならない。 分析過程は複雑で、分析家も患者もともに何がワーキングスルーを進めているのか全てを把握できているわけではない。解釈以外の様々な要因が関わっており、分析家も解釈以外の形でワーキングスルーに寄与している。分析家の解釈によって洞察が得られるという考えは疑わしい。患者は多くの場合、解釈を額面通りには受け取らない。患者なりにそれまでにはなかった認識を納得して受け入れていく無意識的なプロセスがあるものと思われる。 ある患者は数年間、週1回の心理療法を続けたあと、頻度を増やして精神分析に入った。分析家はあまり期待していなかったが、患者はそれまでとは打って変わって自由連想の才を示し、夢を見て、転移をセッションで扱えるようになり、洞察とはいかなるものか掴んでいった。患者は現実生活でも大いに進展を見せたが、うまくいっている最中で突然やる気をなくした。しかしそれでも、患者は現実生活において上々の仕上がりを見せた。それは結果的には、失敗を怖れて強迫的に努力するというよう...

見たくないものは見えない

 久しぶりの更新です。今回取り上げるのは次の文献です。 Salter, M. (2019) Malignant trauma and the invisibility of ritual abuse. ATTACHMENT: New Directions in Psychotherapy and Relational Psychoanalysis, 13, 15-30. 「悪性外傷と儀礼虐待の不可視性」といったタイトルでしょうか。儀礼虐待とは、カルト的な宗教儀式の中で行われる児童虐待や性的虐待のことで、1980年代にセンセーショナルに注目を集めた後、虚偽記憶との絡みでバックラッシュが起き、その結果、都市伝説化して専門家からも懐疑的に見られるようになってしまったもののようです。 では、まず要約してみましょう。 ****************************************** この論文は、儀礼虐待の不可視性を説明するために悪性外傷に関する精神分析的理解を引用するものである。儀礼虐待は子どもに対する組織化された性的虐待において儀式を悪用するものであり、虚偽記憶であるとする批判にも関わらず、1980年代以降も起訴された事案は存在している。犠牲者やサバイバーの一貫したテーマは不可視性である。専門家の間でも、外傷と解離に関わる臨床家以外にはあまり認知されていない。サバイバーは儀礼虐待の事実を社会から認められないし、治療者もまた、専門家集団から懐疑の目を向けられる。本論では、儀礼虐待のサバイバーと精神保健の臨床家へのインタビューを通じて、儀礼虐待とその不可視性が心理社会的構造の中で共構築されていくと主張する。 精神分析の諸理論は、子ども時代の早期における外傷が、家族やコミュニティの文脈を経て、暴力的な加害(外傷を与える側)につながっていく道筋について理解を試みてきた。本論では、グランドの「悪性」外傷の概念と、アルフォードの外傷となる環境と、外傷を与える残酷さとを結びつける社会的文脈の研究を参照する。彼らは、暴行や侵害の事実が、加害者からだけでなく、傍観者やコミュニティ、歴史からさえも抹消されることを指摘し、このことを「邪悪」と呼んだ。この邪悪さはオグデンが言うところの自閉−接触ポジションに属する経験である。うまくいけば、無限の世界への畏敬の体験となるが...

アイデンティティとしての「トランス」

 今回取り上げるのはこちらです。 Lemma, A. (2018) Trans-itory identities: some psychoanalytic reflections on transgender identities. IJP, 99(5), 1089-1106. 精神分析の本質を見失わないようにしながらも、現代的でセンシティブなテーマにも丁寧な論述で接近を試みる著者らしい論文です。要約では著者であるレマの粘り強く、幅広く目配せした文体を伝えきれませんので、ご興味のある方はぜひ原典に当たっていただければと思います。 ではまず要約を示します。 ****************************************** 精神分析的に言えばアイデンティティとは葛藤的で無意識的願望や空想と深く結びついたものだが、現代においては意識的に選択可能なものとして語られがちである。これが新自由主義的な大量消費主義と結びつくと、アイデンティティの獲得は欲張りな模倣と変わらなくなる。 身体はアイデンティティを構成する基礎だが、現代の技術は身体も修正することができる。トランスジェンダーを自認する人は生まれつきの身体をジェンダー・アイデンティティに合うよう修正することを望むが、18歳未満の後期思春期で、それまでに明確なジェンダーの葛藤の履歴がない人が「トランスジェンダー」をアイデンティティの参照枠にすると、トランスジェンダーが自分にとって持つ意味を心理的にワークしていくことが難しくなる場合があるように思われる。 トランスジェンダーという言葉は、現在では様々な状態を包括するようになっており、生まれたときに割り当てられた性別やジェンダーがその人のジェンダーアイデンティティやその表出に合っていないことを幅広く示している。 「トランスジェンダー」というアイデンティティが性、ジェンダー、性指向の様々な状態を表す力を持つようになると、「トランス」という本来は「周縁」、「境界」を意味する言葉がむしろ文化的中心地となり、性やジェンダーの混乱を抱えた青年期の人が「トランスジェンダー」アイデンティティによってなんとか自分をマネージしているというケースも増えている。 ここで焦点を当てているのは、永続的に身体の修正やその空想によっていわば「精神的な手術」をしており、それをつなぎ合わせ...

質の担保とは。訓練を受ける動機とは。

 今回は少々controversialな文献を取り上げてみます。こちらです。 Polden, J.(2018)How Many Times? British Journal of Psychotherapy, 34, 585-604. なんの回数を問いかけているのかといえば、セッションの頻度です。セッションの頻度は精神分析にとって本質なのか、という問題提起です。ではまず要約してみましょう。 ****************************************** 週1回セッションの患者が「ここにいてもいなくても、あなた(分析家)を連れているんです」と話す。訓練機関で訓練を望む患者が高頻度のセッションで付着的に分析家の解釈を肯定する。 前者の患者の分析のほうが「精神分析的」でないと言えるだろうか。高頻度のセッションの価値を疑うわけではないが、一定の頻度をア・プリオリに要求することが、どれほど理論的・臨床的理解から導き出されたことなのか、ということは問われるべきである。でないと、訓練機関の公式見解と我々が実践している精神分析ワークとの乖離が深まっていく危険がある。 2014年に英国精神分析委員会が会員に行なった調査では、どの臨床現場でも回答者の多くが週1回の頻度で精神分析ワークを行っていると報告している。 さらに、英国精神分析委員会がロンドンのとある訓練機関を調査した結果、トレイニーの訓練のために選ばれた患者(週3回以上の頻度。以下、訓練患者)は平均で50%のセッションを休んでいたことがわかった。つまり、トレイニーは事実上、平均で週1.5回のセッションしか持てていなかったわけだ。これらの患者の多くは、過酷な背景を持ち、パーソナリティ障害に類する症状を持つため、最初に申し込んだ段階では訓練患者には適さないとされたが、そうするとトレイニーの数に対して訓練患者が足りなくなるので、料金を減額して高頻度セッションの訓練患者に採用された人たちだった。 これは当事者全員にとって困難な状況が生じている。訓練機関はトレイニーに義務を課すことに痛みを感じている。衝動性と解離傾向を抱える脆弱な患者はすでに人生で多く経験してきた自分が嫌になるような経験をさらに塗り重ねることになる(減額や採用基準の緩和などの調整をしてもらったにも関わらず人との約束を守れないということ...