アイデンティティとしての「トランス」

 今回取り上げるのはこちらです。

Lemma, A. (2018) Trans-itory identities: some psychoanalytic reflections on transgender identities. IJP, 99(5), 1089-1106.

精神分析の本質を見失わないようにしながらも、現代的でセンシティブなテーマにも丁寧な論述で接近を試みる著者らしい論文です。要約では著者であるレマの粘り強く、幅広く目配せした文体を伝えきれませんので、ご興味のある方はぜひ原典に当たっていただければと思います。

ではまず要約を示します。

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精神分析的に言えばアイデンティティとは葛藤的で無意識的願望や空想と深く結びついたものだが、現代においては意識的に選択可能なものとして語られがちである。これが新自由主義的な大量消費主義と結びつくと、アイデンティティの獲得は欲張りな模倣と変わらなくなる。

身体はアイデンティティを構成する基礎だが、現代の技術は身体も修正することができる。トランスジェンダーを自認する人は生まれつきの身体をジェンダー・アイデンティティに合うよう修正することを望むが、18歳未満の後期思春期で、それまでに明確なジェンダーの葛藤の履歴がない人が「トランスジェンダー」をアイデンティティの参照枠にすると、トランスジェンダーが自分にとって持つ意味を心理的にワークしていくことが難しくなる場合があるように思われる。

トランスジェンダーという言葉は、現在では様々な状態を包括するようになっており、生まれたときに割り当てられた性別やジェンダーがその人のジェンダーアイデンティティやその表出に合っていないことを幅広く示している。

「トランスジェンダー」というアイデンティティが性、ジェンダー、性指向の様々な状態を表す力を持つようになると、「トランス」という本来は「周縁」、「境界」を意味する言葉がむしろ文化的中心地となり、性やジェンダーの混乱を抱えた青年期の人が「トランスジェンダー」アイデンティティによってなんとか自分をマネージしているというケースも増えている。

ここで焦点を当てているのは、永続的に身体の修正やその空想によっていわば「精神的な手術」をしており、それをつなぎ合わせて非常に不安定な「どこにも安住できないtrans-itory」アイデンティティを形成しているケースである。彼らにとって「周縁、移行的trans」というアイデンティティは役に立つのである。身体は発達とアイデンティティ形成がうまくいっているときと同じくらい、アイデンティティが混乱し解体しそうなときにも、よすがとなるものである。トランスジェンダーの人は望む性に合わせて身体を修正したほうがアウトカムが良好であるという研究が存在することは心に留めておかねばならないが、ここで取り上げるようなサブグループにとって、身体の修正は解決にならない。

トランスジェンダーの病理化が疑問視される中で、このような若者とワークするのは困難なことだが、その人にとってのトランスジェンダーの意味と役割に中立的な関心から問いを持つことは、その他のことと同じく精神分析の中核であり、予め決められた「健全さ」にその人の従わせることと同じではない。

トランスジェンダーを自認し、ホルモン療法を希望した若者のケース。それまでに明確なジェンダーアイデンティティの葛藤を示してはいなかった。患者にとって「女の子っぽく」あることとは、男の子の気を引くために着飾ってばかりいる「頭空っぽ」の王女様であり、女性の身体の中にいることは実体のないことと感じられていた。ウェブ上で男性として活動しているときの方が、むしろ実体があると感じられていた。養母は「ホステス」のように他人からどう見られるかを気にしてばかりで結局のところ誰に対してもさしたる印象を残せていない人と感じられていた。養父は性役割意識にかなり縛られた人であった。実母が生まれ育った文化においては男の子が重んじられる傾向にあり、自分が男の子に生まれていたら実母は自分を手放さなかったのではないかという空想が探索されたことは進展の契機となった。数年の治療の末、ホルモン療法や身体の修正を求めなくなり、患者はオンラインでの活動を減らし、女性とも男性とも付き合うようになり、バイセクシャルと自認するようになった。

トランスジェンダーの治療において、予め決められた治療目標はないという観点から、この治療を良好なアウトカムを示すものとは言えない。ただ、患者の葛藤はジェンダーアイデンティティとは部分的にしか関係していなかったけれども、それでも「トランス」という入口からでないと葛藤に取り組めなかっただろうし、また同時に、その葛藤は身体の修正によって応えられるものでもなかったと思われる。

自分が男の子だったら実母は自分の育児を諦めなかったのではないか、という空想は、患者のアイデンティティにおける実体のなさを理解する上で助けになった。発達論は正常と異常を分けるためにではなく、未だ顧みられていない早期の経験が現在のパーソナルな判断に影響を及ぼすという視点を持つために用いられる必要がある。

性別適合手術を受けた人においても、その手術自体を後悔することはなくても、手術を決めた動機と過去の外傷体験との結びつきがワークされることで、術後の適応を助けることができる場合もある。

自分の苦痛を緩和するには身体を修正するしかないという患者の強い情動は、その無意識的な意味を解釈することで判断を「一時停止」させたいという治療者の逆転移を刺激するが、それは内的にワークされなければならず、それを行動に移して早すぎる解釈をしてしまうと、患者は治療者が患者の身体的苦痛を信じていないと感じる。

提示されたケースで機能した唯一の介入は、治療者の理解を助けるために患者に話してもらうということであった。また、治療者のコメントはその時点での治療者の一つの理解を示すにすぎず、真実を提示しているわけではないということを患者にしっかり示すことも必要である。こうした逆転移に内的に対処するためには、若いトランスジェンダーの患者を多く治療した経験、トランスジェンダーとは同質性のあるグループではなくその中に様々な在り様を含んでいることを知っておくこと、身体の修正によって実際に良好な長期的アウトカムが得られたケースを知っておくことが重要である。また、たとえば女性治療者がMtFのトランスジェンダーの患者を治療する場合のように、治療者の身体が羨望の的になることもあると知っておく必要がある。

本論で焦点を当てているのは、トランスジェンダーという訴えを通して、自分の身体との関係が動揺していることを伝えている患者たちである。身体を修正するという意思決定そのものが病理的なわけではない。そのような意思決定がどのような心的状態によって後押しされているのかが重要である。

身体に住まうこと、自分の身体が自分であるという認識を持つことは、誰にとっても生涯を通じて何度も立ち返る発達課題だが、トランスジェンダーを自認する人にとってはとりわけ重大なテーマである。

持って生まれた身体は、性的な性質を帯びているというだけでなく、対象-親とのつながりを含意するという点で重要である。後天的な身体の修正は、先天的な身体をなかったことにできるわけではない。身体の修正が、自分のルーツや身体とのつながりを消し去りたいという動機に基づいて行われるときには、術後にメンタルヘルスの問題やブレイクダウンを招くことがある。

本論のような議論には伝統的な性役割規範を強化するリスクがあることは意識しなければならない。社会活動とインターネットの普及によって、トランスジェンダーというテーマは以前に比べてかなり可視化され、トランスジェンダーを自認する人は以前よりも恥を感じにくくなっている。とはいえ、インターネットは個別的な体験の意味にまでは入り込めない。トランスジェンダーが持つ個別的でパーソナルな意味について対話することは、トランスジェンダーを心の問題であるとするスタンスと受け取られることもある。しかし、トランスジェンダーに限らず、経験のパーソナルな意味を対話によって理解していくことが精神分析であり、そのような対話がトランスジェンダーを自認する人がその状態に対してベストな選択をできるよう援助することができる。

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センシティブなテーマであるだけに、トランスジェンダーは心の問題であるという主張ではないという点はまず押さえておきたいところです。論文の中でも触れられているとおり、レマは性別適合手術を希望するトランスジェンダーを自認する人の面接を数多く行っており、身体の修正によって長期的に良好な転帰を得たケースも多く経験しているようです。

そのような豊富な臨床経験の中で、トランスジェンダーそのものというよりは、元々無意識的に抱えていた同一性を巡る混乱やトラウマの問題が思春期・青年期に入って顕在化してくる中で、「トランスジェンダー」という概念をさしあたりのアイデンティティの拠り所としている人が含まれていると気づくようになったということのようです。

「トランスジェンダー」という概念は、その中に性自認と身体の不一致という意味を含んでいます。身体はアイデンティティの基礎となるという考えからすれば、定義上、アイデンティティにまつわる困難を含みこんだ概念ということです。これが、元々安定した同一性を確立できていない人にとって、アイデンティティが流動的で不安定な状態を、そのままで名付けてくれるものとなるということです。したがって、性別適合手術が行われると、性自認と身体が一致することになってしまうため、元々あったアイデンティティの葛藤や混乱を収める器として機能しなくなり、再びアイデンティティの混乱がメンタルヘルスの問題として顕在化してしまうということです。あるいは、性のあり方に関わる訴えが変わり、別の身体の修正を求めたりすることなる場合もあるようです。

さて、このようなケースが臨床家に認識されるようになる背景には、トランスジェンダーが以前に比べれば社会的な認知と理解を得てきたということがあるでしょう。自分の葛藤や混乱(意識的には不快感や抑鬱、空虚さなどとして経験されているかもしれません)をどのように表現したらいいのかわからない若者にとって、自分は「トランスジェンダー」なのではないかと考えたら、自分の苦しみをもう少し人にわかりやすく伝えられるだろうと感じられるくらいには、個人と社会をつなぐ概念として普及してきているということです。

ただし、これは欧米の話であるという点は重要です。欧米における性的少数者に対する差別撤廃と権利擁護の潮流と比べると、日本では概念の普及も理解もまだまだでしょう。日本ではアイデンティティとしての「トランスジェンダー」は、欧米ほどには若い人にアピールしないかもしれません。なぜなら、曰く言い難い苦しみを訴えて無理解に遭うリスクよりも、「トランスジェンダー」だと訴えて差別や偏見に遭うリスクのほうが、まだ大きいかもしれないからです。

もしかすると、今後日本でも、トランスジェンダーに対する理解と概念の普及が広まり、レマが記述したようなケースへの対応を現場レベルで考えることが増えてくるのかもしれません。それは、多様性の理解という社会の変化としては望ましい方向でしょう。この論文が、トランスジェンダーの人が自身の幸福のために選択する身体の修正を妨げる方向で作用するとしたら、レマの望むところではないと思われます。社会全体としては、トランスジェンダーの人が望む身体の在り方を選択できる潮流を形成しつつ、現場レベルではその選択が幸福に繋がらないかもしれない例外ケースをきちんとアセスメントできるようしていくという主旨であろうと思われます。

この、社会的に認知されていない状態から、社会的啓蒙を経る中で、集合の外延が広がっていき、集団としての同質性が緩んできて、元々想定していなかったケースが含まれるようになっていくという流れを見ると、発達障害のことを連想しなくもありません。

発達障害も、社会的に認知されていなかった頃は、それまでの概念では理解ができないことの言い訳として、なんとなく大雑把に心の問題や子育ての問題とされ、現在で言う二次障害を上塗りするような対応をされるということも珍しくありませんでした。しかし、発達障害は主として生得的な脳の機能の問題であるということが啓蒙され、対応方法も分化が進みました。

その過程の中で、臨床現場の実感としては、自己愛の問題を抱えた人が、「人間関係がうまくいかないのはアスペルガー障害だからではないか」といった訴えで臨床の場に現れることが散見されるようになったように記憶しています。また同時に、発達障害概念の精緻化も進行中でしたから、本当にそれを自己愛の問題と言ってもいいのか、やはり典型的ではない発達障害の表れではないか、という疑問も常にあったように思います。

そのような過程を経て、現在では、私たちは以前に比べれば、自己愛と自閉スペクトラム、ADHDと衝動的なパーソナリティの問題、などの区別と重なり合いについて、より適切にアセスメントできるようになってきたわけです。

おそらく、レマが記述したようなケースも、トランスジェンダーの概念の普及と精緻化、臨床現場での理解と対応の努力の積み重ねの中で、より適切にアセスメントされるようになっていくのでしょう。

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