精神分析概念の使い方、変わらぬものの機能

 今回取り上げる論文はこちらです。

Frogel, S. (2020) The will to truth, the death drive and the will to power. The American Journal of Psychoanalysis, 80, 85-93.

「真実への意志、死の本能、力への意志」というタイトルです。フロイトの死の本能をニーチェの力への意志から読み直そうという論文です。死の本能はとかく敬遠されがちな概念ですし、様々な読まれ方をしています。これもその一つでしょう。これをきっかけとしてそれぞれの実践家が死の本能との向き合い方を模索できるといいですね。ではまず要約です。

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哲学は伝統的に、人は真実を求めるもの(真実への意志)であると考えてきた。生きることには、適応のためにも嘘や欺瞞や偽装はつきものであり、不変の真実は神の世界に属するもので、結局のところ、死後に、あるいは生を超えたところで、はじめて到達できるものとされてきた。

フロイトの生の本能についても、快原理からスタートして現実原理が必要になることを説明できず、死の本能を想定した。有機的な生は複雑で混沌として変化に満ちている。現実原理が求める秩序と安定は変化がないことであり、無機的な死の世界である。すると、生の目的は死であるという矛盾した結論にたどり着いてしまう。

無機物は有機物に先行しており、単純な状態は複雑な状態に先行している。フロイトも快原理が目指しているのは快の持続ではなく、緊張状態が解かれて平衡状態に戻ることであることを考察して、死の本能の方が生の本能よりも基礎にあると考えざるを得なくなった。無機的で、単純で、変化がなく、同じことの繰り返しの反復強迫の世界が、生の基礎にあると言わざるを得ないのではないかと。生の活動とは、不変の真実=死の一時的中断でしかないのではないか。

ニーチェは、真実への意志が基本的な前提となっていることに疑問を呈した。不変の真実を求めるのは、人間が複雑さや変化に耐えられないという弱さゆえであり、真実への意志の本質は、力への意志であると考えた。

死後に到達する真実という発想は形而上学的なものであり、生物学的な観点からすれば、死と真実は結びつかない。不変性や普遍性への意志は、死の本能というよりも、真実への本能であり、それは生における形而上学的世界の原理と言えるのではないか。

すると、生の本能と死の本能は矛盾するものではなくなる。生の本能は変化に対応し、自己超克を志向し、真実への本能は、不変性を見出し、自己同一性を志向するということなのではないか。

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要約は以上です。

死の本能という概念は、その正しい解釈があるのかどうはさておき、頭の片隅に置いておくと、自分の人間観を考察する刺激を与えてくれるように思います。

著者のフローゲルは、生の目的は死であるという「矛盾」を、死の本能で言う死とは形而上学的なものであって、生きるという活動に包括されると考えることで乗り越えようとしているようです。

ただ、それは本当に矛盾なのでしょうか。

たしかに、「人はみな死ぬことを目指している」と考えるとおかしなことになってきます。ただ、この場合、目的というものを、意識的な意志の水準で捉えています。

精神分析で言う本能は無意識的なものと想定されています。意識的な意志とは関係なく、人間に基本的に備わっている傾向性のようなものという考えです。

その水準で言えば、「人はみな死に向かっている」というわけで、そんなに不自然なことではなくなってきます。今のところ、永遠に死なない人はいないので。この場合、意識的な意志は、「人はみないずれ死ぬ」という基本的傾向性をどのように受け入れ、折り合っていくか、というところで働くことになります。

精神分析の概念は無意識のことを言っている場合が多いので、そのことを忘れて使ってしまうと、しばしばおかしなことになります。

「抵抗」という概念もその一つでしょう。治療手段として思いつくことを全て話してくださいと言っているのに、何も思いつきませんと言うとか。よくなるためにセッションに通っているのに、しばしばセッションをお休みするとか。そういうときに、あたかも治療に抵抗しているかのような反応だということで、そのように呼ばれるわけです。

ここで、「あなたは抵抗していますね」と言っても「そんなことないです。たまたまです」といった返事が返ってきます。当たり前です。その言い方では、クライエントが意識的な意志で「治りたくない」と思っていると言っているみたいです。「そんなことない」という答えはその通りです。

精神分析で言う抵抗は無意識において起こることを指しています。「あなたが抵抗している」のではないのです。「あなたの無意識において何が抵抗しているのだろう」という問題設定なのです。それを治療者とクライエントで探究していこうというのが治療同盟です。

慣性の法則にせよ、恒常性原理にせよ、保守派にせよ、前例主義にせよ、現状そうであるものが変化するのはそれなりに大変だということを示唆する例はたくさんあります。

フローゲルの論文でおもしろいのは、ニーチェを引用しながら、真実を変わらないものの中に含めていることですね。真実というのはしばしば、高尚で、純潔で、優れているものと思われがちです。しかし、誰がどう関わっても変化がなく動きもないという意味では、人間がそこに固執しだすと反復強迫的になりうるということです。あるいは、このような不変の真実という考え方自体が構築主義においては批判されるのでしょう。

真実の探求という輝かしい知性の活動の背景に、千変万化する生命活動において変わらぬ確かなものを求めてしまう人間の性を見出す。しかしそれもまた人生なり。精神分析は真実を志向すると言われることもありますが、真実を突き付けて人間の性を暴く、というよりは、真実だけでは解きほぐせない人間の性を、それでもおもしろく生きていくことを考えるのが精神分析かもしれませんね。

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