コミュニティメンバーとしての責任
今回取り上げる論文はこちら。
Eisold, K. (1994) The Intolerance of Diversity in Psychoanalytic Institutes. International Journal of Psychoanalysis, 75, 785-800.
「精神分析の訓練機関は多様性に不寛容」というタイトルで、精神分析が多様性を排除しやすい構造的問題を抱えていることを論じています。
ではまず要約してみましょう。
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精神分析の訓練機関はしばしば分裂して別の団体を作る。理論的な意見の対立を許容せず、敵意剥き出しで対立する派閥を攻撃する。これは世界の至る所で起きていることであり、個々の事例でそこに関わった人のパーソナリティの問題等で説明できることではない。もっと精神分析の訓練機関というシステムに内在する社会的防衛が関わっていることだと思われる。本論では三つの視点からこの問題を論じる。一つは精神分析という仕事に内在する要因。一つは精神分析の組織やコミュニティの特質に関わる要因。一つは精神分析の文化に関わる要因である。
精神分析という仕事は孤独である。患者からの圧力に晒されながら、情動的に揺さぶられ、いわゆる専門知識は確かな礎にはならず、トップクラスの曖昧さを持った仕事であり、感謝されるかどうかもわからないし、そもそも自分の仕事がうまくいったのかどうかも定かではない。そのような不確かな立場に立つと、自分が親しんだ理論というのは、同じような考えで仕事をしている仲間たちや教師たちへとつないでくれるライフラインのように思えてくる。理論は訓練の過程でスーパーバイザーや分析家から取入れ、内在化したアイデンティティの拠り所であり、曖昧さを極める仕事の中でバランスを取るうえでかけがえのない道具立てなのである。
公式見解としては、そのような分析家やスーパーバイザーへの感謝、忠誠、理想化は、訓練分析において分析され、より自由になった自分自身の分析家アイデンティティが確立されることになっている。しかし、実際には、他の職業同様、自分を教え育ててくれた者からの取入れが、不確かで曖昧な仕事をするときに支えになってくれるということはあるだろう。本当の意味で、自分自身の分析家アイデンティティが確立されるのには時間がかかる。こうして、同じような考えの様式を共有する者同士が学派を形成する。
学派間の違いが対話を生むならばよいが、ある学派に所属していること自体がアイデンティティの拠り所になってくると、厳格で不寛容な派閥が形成される。しかし、偏りなく客観的であることは分析家のアイデンティティの根幹に関わることなので、論争が始まると、どの陣営も自分たちこそ「科学的」(政治的理由で相手を認めないわけではない!)だと主張する。自分が所属する学派の考えに忠誠を誓うことによって、患者が提示する素材のある部分に反応できなくなっているとは思いたくないのだ。逆に言えば、曖昧さをきわめる専門的職業に従事する上で、自分に対する疑念や、自分は無能で失敗するのではないかという不安に対する社会的防衛として、自分(たち)の理論は他の理論よりも適切で真実を捉えているという不寛容で偏った想定が作動するのではないだろうか。
次に、どのような職業であっても、後進を育てたり、顧客を紹介してもらったり、専門家としての自尊心を維持したりするうえで、同業者のコミュニティから逸脱したくないという不安が働くのは想像に難くないが、精神分析のコミュニティにおいてそれが顕著に現れるのはどうしてだろうか。よく言われることとして、訓練分析が資格要件になっていることがあげられる。転移と逆転移を取り扱う上で訓練分析は必要だが、それは単に分析であるだけでなく、コミュニティに受け入れられるためのパスポートにもなっているわけである。
つい最近まで、訓練分析の進捗状況が訓練委員会で報告されるということが行われていた。それが禁止されている組織でも、非公式にはそれに類する報告が行われていたことが証言されている。そしてしばしば、コミュニティの同僚の考えと合わない訓練分析は、まだ分析が足りないと評されていたのである。これでは訓練分析は自身の問題を自由に探索する場ではなくなるし、分析家という職業は身近な仲間からの人格攻撃の危険にいつも晒されているということになる。
フロイトが集団心理学で述べたように、集団は個々のメンバーの自我理想を代理するリーダーの下に結集し、個々のメンバーの相互の同一化によって凝集する。一方、分析は自我と自我理想、自我と対象を分離し、自我の確立を目指すものである。集団(訓練組織)を形成し、維持することは、自我の確立とは矛盾するのである。訓練生は訓練分析家に対して従順になり、訓練分析家を超自我に取り入れ、結果として自我は弱体化する。訓練分析の目的は分析なのか、資格認定なのか。分析家の権威とは、分析家をエンパワーするものなのか、支配のための道具なのか。
また、精神分析というのは二人の人のペア関係における出会いである。分析家の多くは、自分の精神分析の訓練の重要な部分は訓練機関において行われたとは感じていないだろう。精神分析の訓練は訓練分析家やスーパーバイザーの個人開業面接室で、彼らとのペア関係において行われたと思っているだろう。このような強力なペア関係の集積によって構成された機関が、果たして組織的にルールや境界を設定するといった形で機能することができるのだろうか。さらには、訓練機関が認めたということよりも、誰それの分析家は誰それで、その分析家は誰々で、といった血統を重んじる伝統もある。このように、訓練機関が適切な境界設定機能を果たすことができないと、逆説的ではあるが、訓練機関が過度に硬直した場になっていくのではないか。境界は透過性を欠き、厳格な階層性を持ち、柔軟性を欠いた役割と仕事の割り当てが行われるような組織である。こうなると、組織は一神教的な原理主義に傾き、批判は抑制され、秘密結社の様相を帯びてくる。
もう一つ、この問題に関連する精神分析の文化は、俗世間から距離を取り、俗世間を見下していることではないだろうか。まるで自分たちは俗世間の競争や嫉妬や羨望とは無縁であるかのような態度で、組織運営の仕事には価値を見出さない。こうした文化は世界に対抗するフロイトの英雄像に少なからず影響されているのかもしれない。フロイトは素朴な人間中心主義を覆した点でコペルニクスやダーウィンに並び称されるが、フロイト自身は自分の発見を世間に認めてもらおうとしつつ、そのための組織化には葛藤があり、何度も失敗している。国際精神分析学会ができたときも、実質的な支配権はフロイトを中心とした非公式の委員会が握っており、この委員会も離反や分裂を繰り返した。そして、公式の訓練システムができあがった時期と、この委員会が解散し、フロイトが学会に出席しなくなった時期は概ね一致している。
伝統的な精神分析理論が求めているのは、分析家は中立で、現実的関心から距離を取って、患者の転移を映すブランクスクリーンとして隠れ身でいることである。最近ではこうした伝統は変わってきているものの、自分自身が生きている現実世界から超然と距離を取っている分析家イメージに寄与しているのではないだろうか。
こうした現実世界を軽視する分析家集団の風潮の煽りを最も食らっているのは、他ならぬ分析業界の指導者たちかもしれない。分析業界の指導者たちは、現実的関心から距離を取りたい同業の傍観者たちから自己愛的だと見なされ、表面上は祭り上げられながら、内心では軽蔑される。こうして組織運営上の本質的な協力を得られなくなって、組織は分裂を繰り返す。こうして、傍観者たちが指導者たちに投影していた現世の競争、嫉妬、政治的妥協等々は劣等で残酷だという空想は現実化する。自分たちはそんな世界には属していないのだという傍観者分析家たちの思いを実現しつつ。
以上みてきたように、精神分析家の曖昧な職業アイデンティティ、師弟関係における忠誠を重んじるような会員資格制度、組織運営のような現実的関心を軽視する文化的背景などの要因により、精神分析の訓練機関はアイデンティティの動揺に際して、不寛容という社会的防衛に訴えやすく、カルト集団化する危険を常に孕んでいる。
近年は、現実の多次元性や不確定性、真実は立場によって異なることを受け入れる分析家が増えてきており、それに伴ってかつてのようなセクト化は和らいできている。また他の心理療法の台頭により、リーダーを盛り立てながら組織的に協力する必要性も増している。
難しいことではあるだろうが、こうした精神分析の訓練組織に生じる力動について学ぶことを訓練プログラムに組み入れたり、精神分析的に研究したりすることで、分裂あるところに組織的な自我をあらしめることができるのではないだろうか。
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精神分析の訓練組織が不寛容になって分裂を繰り返す問題について、個々の事例に関わった人物を槍玉にあげるのではなく、精神分析に内在する力動や文化という点から分析した論考です。30年以上前の論文ですが、現在でも一定の説得力があるように思います。それだけ、精神分析に内在する問題に迫っているということでしょう。
精神分析家の職業アイデンティティの曖昧さというのは、もしかすると精神分析家ならではのものかもしれません。分析治療を専門とする心理療法家としては、もう少し職業アイデンティティは明確な気がします。無意識のプロセスに身を委ね、見るべきものが見えるところまで行けば、なにかにたどり着くだろうという精神分析への信を礎として、人間が生きることの興味深さに焦点を当てること。そのような職業アイデンティティをわりと明確に持っているような気がします。
精神分析家は何かが掴めたと思っても、それをまたさらに問い直し、探求を続ける求道者のような側面があるのでしょうか。そのように徹底して自分を問い直し続ける。週5日の訓練分析というのはそのようなものなのでしょう。しかし、もしその徹底性が、曖昧さを極める方へ働き、結果として何かに縋ることになってしまうとしたら、徹底した分析という目標が現実的なのか考える余地もあるのかもしれません。
次に、以前にも取り上げたことですが、訓練分析が資格要件になっているというのはなんとももどかしいジレンマを引き起こします。精神分析が人生に影響を与える力を体験的に知るうえで、自ら分析を受けることは非常に有意義な訓練だと思います。しかし、それが資格要件になると、資格を得るために訓練分析家に迎合したり、見るべきものを見るところまでやり切る前に妥協したりといった、自己分析とは異なる動機が生じることは文脈上、仕方ないことでしょう。それに加えて、本論文では、訓練分析の進捗状況が訓練機関で共有され評価されるという現実があったことにも触れられています。これでは候補生が分析セッションにおいて、精神分析家として不適格と評価されそうな下手なことは言えないと思っても無理もないでしょう。その状況は、自由連想法という基本原則の堅持に関して重大な懸念を生じる事態と言えるでしょう。これが無反省に続けられれば、訓練分析においては予定調和な同じような展開しか起こらなくなり、同じ考えを持つ者たちが世代を経るごとにさらに同じ考えの純度を増して再生産されていくという、カルト集団化の道が口を開けているというのも頷けます。
ペア関係が強力で、組織的な境界機能が働かないと、かえって組織は硬直化・厳格化するというのは、端的に言えば、組織の役割が派閥の勢力図として利用されるようになるということでしょう。
では、いっそのこと資格など失くして、それぞれがそれぞれの精神分析を探求し、持ち寄り、対話していくというコミュニティを作るのはどうでしょうか。メルツァーのアトリエ・システムの発想です。数十名規模の小さなグループであれば、志のある者たちでそのようなコミュニティを一時的に形成することも可能かもしれません。しかし、人間は誘惑に弱く、易きに流れがちです。グループの規模が大きくなれば、切磋琢磨の波及効果は薄れ、精神分析の乱雑で利己的な利用が増え、血液型占いレベルの俗物的迷信に堕していくかもしれません。
質の担保というスペクトラムは、忠誠と血統主義を経て、カルト化に至ります。自由化というスペクトラムは、悪貨の増殖を経て、俗物化に至ります。かといって、安易に中庸を唱えても、潜伏期的な現状維持路線の合理化と区別が困難です。なかなか活気と創造性のあるコミュニティを形成していくうえで、ここに安住していればOKというようなポジションはなさそうです。
多様な人々が、心的現実の責任を引き受けながら、自分なりのコミットと対話を続けることが、コミュニティにとって循環器系のような機能を果たすのでしょう。そのときに、本論文が精神分析の文化として触れている問題は重要です。しばしば権威的で自己愛的だと見なされる精神分析業界の大御所たちは、現実から遊離していたい傍観者たちの現世的権力欲という俗物根性の投影先として生贄に捧げられている面があるのではないかということです。彼ら(大御所たち)を自己愛的だと見なすことによって、自分たちは俗物根性とは無縁の純粋なる精神内界の探求者であるというアイデンティティを守れるというわけです。精神分析集団の不寛容さは、その不寛容さに嫌気が差して集団から距離を置いたグループの無意識的空想とも無関係ではないという可能性にもつながる考えです。「自分は精神分析に興味があるのであって、業界の権力争いには辟易する」と考えて、自分のオフィスで分析に集中しているつもりの人の仕事が、マクロで見ればその権力争いで得られた縄張りによって守られているということもあるでしょう。だからといって、特定の人物に内在する自己愛性や権力欲、俗物根性が無罪放免になるわけではありませんが、それを批判していれば解決する問題ではないということは憶えておいてよいでしょう。
すべてのメンバーが明示的に政治に参加することは難しいでしょうし、その必要もないでしょう。しかし、自分なりのやり方で精神分析から得た恩恵をコミュニティや社会に還元すること、コミュニティや社会との対話を続けることは、精神分析業界の活性化に貢献するでしょう。自我は超自我、イド、現実という3人の暴君に仕えていると些かシニカルに言われます。しかし相手は暴君だけではないようです。前門のカルト化、後門の俗物化に加え、中庸という名の無責任な安全地帯という3つの陥穽を見定めながら、自分の足場を自分で確かめる責任の自覚が求められるのでしょう。