質の担保とは。訓練を受ける動機とは。

 今回は少々controversialな文献を取り上げてみます。こちらです。

Polden, J.(2018)How Many Times? British Journal of Psychotherapy, 34, 585-604.

なんの回数を問いかけているのかといえば、セッションの頻度です。セッションの頻度は精神分析にとって本質なのか、という問題提起です。ではまず要約してみましょう。

******************************************

週1回セッションの患者が「ここにいてもいなくても、あなた(分析家)を連れているんです」と話す。訓練機関で訓練を望む患者が高頻度のセッションで付着的に分析家の解釈を肯定する。 前者の患者の分析のほうが「精神分析的」でないと言えるだろうか。高頻度のセッションの価値を疑うわけではないが、一定の頻度をア・プリオリに要求することが、どれほど理論的・臨床的理解から導き出されたことなのか、ということは問われるべきである。でないと、訓練機関の公式見解と我々が実践している精神分析ワークとの乖離が深まっていく危険がある。 2014年に英国精神分析委員会が会員に行なった調査では、どの臨床現場でも回答者の多くが週1回の頻度で精神分析ワークを行っていると報告している。 さらに、英国精神分析委員会がロンドンのとある訓練機関を調査した結果、トレイニーの訓練のために選ばれた患者(週3回以上の頻度。以下、訓練患者)は平均で50%のセッションを休んでいたことがわかった。つまり、トレイニーは事実上、平均で週1.5回のセッションしか持てていなかったわけだ。これらの患者の多くは、過酷な背景を持ち、パーソナリティ障害に類する症状を持つため、最初に申し込んだ段階では訓練患者には適さないとされたが、そうするとトレイニーの数に対して訓練患者が足りなくなるので、料金を減額して高頻度セッションの訓練患者に採用された人たちだった。 これは当事者全員にとって困難な状況が生じている。訓練機関はトレイニーに義務を課すことに痛みを感じている。衝動性と解離傾向を抱える脆弱な患者はすでに人生で多く経験してきた自分が嫌になるような経験をさらに塗り重ねることになる(減額や採用基準の緩和などの調整をしてもらったにも関わらず人との約束を守れないということなど。 ブロガー注)。トレイニーにとっては訓練の大事な時期に、自分は本来のやり方をできていないという欲求不満と恥と自己疑念に苦しみながら、ギリギリの人生を生きていてしかもセッションに来ない難しい患者と分析的にワークする道を模索しなければならない。 イタリアやアメリカでも似たような状況だが、こちらはそれほど熱心に高頻度の訓練患者を探そうとしないので、失意の内に訓練をドロップアウトするトレイニーの率が高いという結果となっている。 近頃IPAで回覧された討議資料では、週4,5回という基準を週3回にしてはどうかという提案がなされた。これが採用されたとして、状況を改善するのか、精神分析界隈にさらなる立場や地位の分裂と競合がおきるのかは定かではないが。 レマは精神分析と精神分析的心理療法と力動的心理療法は、実践的にも理論的にもそれほど明確に区別できるものではないと言っている。それでも訓練機関がそこの区別にこだわるのは、精神分析は常に、精神分析とは何かということと同様に、精神分析ではないものと反対の立場を取ることによって自己定義してきたという背景がある。すると、セッション頻度は精神分析の地位を決定する力を与えられることで政治性を帯び、患者によって臨床的にセッション頻度を変える思考の自由を危険に晒すことになる。 1918年のブダペスト会議におけるフロイトの講演の有名な一節「私たちの治療法を広範囲に応用することになると、分析という純金に直接暗示という銅を合金することを余儀なくされる」という話が、週5回の精神分析こそ「純金」であるとする正当化の根拠に使われるが、フロイトはそこでセッション頻度のことを言っていたわけではないと思われる。同じ講演の別の箇所では、様々な患者の例を挙げていることからしても、何がうまく働くかは患者によって異なるということを言っていたものと思われる。 「純粋な精神分析」は禁欲と匿名性によって退行を促し転移神経症を発展させるというのが古典的な見解だが、これは「情動支持的な」心理療法に対立して定義づけられたものである。ところが現在では、高頻度のセッションはより障害の重い患者を抱える「支持」になると言われるようになっている。カーンバーグは、心理療法と精神分析の違いは長期的な経過の中で次第に明らかになってくるのであって、個々のセッションでは違いはわからないと言っている。前半の指摘は、精神分析かどうかは事後的にしかわからないということを言っているようで興味深い。実際、この数十年で、精神分析が心理療法の「支持的な」要素を採用したり、精神分析的心理療法が、精神分析の特徴とされていた転移のワークを行ったりしてきた。 臨床的に考えると、高頻度のセッションの方が、枠を守るための介入や、現実の侵襲の手当をするための介入が少なくてすみ、早急な理解に飛びつくことなく、転移の中に留まることができるので、ワークをより深めることができる、というのは確かである。 しかしそれも、相対的で状況次第であり、頻度だけで決まるものではない。ワークが深まるかどうかは患者の自我の強さや動機、分析家の理解力や技量によっても左右される。 冒頭で取り上げた患者は、母親の万能的支配によって独立したスペースを持てなかったという歴史を背景に持っており、現在の家族関係においても同様の問題とそこから派生する嗜癖的問題を抱えていたが、分析開始当初、高頻度のセッションを提案されると、分析家の願望の投影スクリーンに利用されるか、さもなければ孤独に取り残されるか、というテーマの夢を見た。彼は低頻度のセッションでも深く分析的にワークし、時を経て、分析家の不在を体感するようになり(低頻度であったからこそ、とも言える)、誰かに取り残される孤独ではなく、真の孤立を体得し、親密な関係においても自分や自分の性的独立性を維持できるようになり、現在の家族関係も改善した。 精神病質的な患者や、嗜癖的な患者の場合、高頻度のセッションはワークするためというよりは、そこへ逃げ込む飛地、新たな嗜癖対象となるリスクがある。 精神分析のケース検討会ではあまりにも簡単にセッション頻度を上げてはどうかという提案がなされるが、幼少期の性的外傷などを始めとする過酷な背景を持つ脆弱な患者にとって、高頻度のセッションは自己調節不能な水準の不安と脅威を喚起する退行を促進し、最悪の場合、入院に至る。そのような脆弱な患者にとって、セッション間の時間が長く空いているというのは、治療過程によって生じた不安や痛みを調節し、治療者を脅威の対象ではなく、助けてくれるよい対象とし続けることを可能にする。脆弱な患者は低頻度で長く会い続けることで、少しずつ愛着を育てることができる。 セッションとセッションの間がどのくらい空いているのがいいのかは患者によって異なる。同じセッション頻度でも、ある患者は閉じ込められ、飲み込まれると感じるし、別の患者は包まれ、守られていると感じ、ワークを深められる。フランス語圏の精神分析モデルでは、セッション内の時間とセッション外の時間が均等であるのがよいとして、週3日を最適としている。 高頻度のセッションが過剰に価値付けられた考えになると、それを正当化するものばかり見るようになる。高頻度のセッションでないと深いワークはできないと訓練中に教え込まれた分析家は、様々な患者と様々な頻度でどこまでワークできるのか探求する自由を失ってしまうかもしれない。ある患者の述懐によれば、「通っていた心理療法士が引退するので、ある精神分析家に紹介されて週2日で通うことになったのですが、その分析家は数ヶ月の間、こちらが言ったことを繰り返すだけで、これでは意味がないと感じていました。あるとき、転移関係を示すような夢を報告したら、その分析家は驚いて、『こういうやり方でワークできるなんて思っていなかった』と言ったのです」。 患者が望むよりも多いセッションを課していると、精神分析は高圧的で権威的で利己的だと社会から非難されても仕方ない。精神分析の理念は本来そういうものではないのだが。もっと多くのセッションに来るようにと患者に課すということは、皮肉なことに、認知行動療法以上に行動処方的である。 高頻度のセッションの方がアウトカムが良好であるということは、実証的にはまだ結論が出ていない。高頻度と、治療が長期に続くことと、良好なアウトカムの相関関係を示した研究もあるが、因果関係は明らかではない。患者の世界に深く入り込む分析家の技量が、分析家と患者の双方を、高頻度でやりたいという気持ちにさせるのかもしれない。ウィニコット流に言えば、高頻度のセッションは患者によって発見され、創造されたものでなければ、遊ぶことはできない。 とはいえ、一定の頻度を課すこと以外に、資格認定のための明確な基準があるだろうか。おそらく、精神分析家の資質は神秘化されてきたし、それに伴って基準を決めるのは難しいという考えも誇張されてきた。実践においてはよい精神分析的ワークというのはコンセンサスが得られるものだし、そこからいくつかの基準を叩き出すことは可能だろう。 セッション頻度といった量的基準ではなく、精神分析的にワークできるかどうかの質的基準を考えるというのは、高頻度のセッションと深いワークは関係ないという話にはならないだろう。むしろ、精神分析の質を問うことが、高頻度の訓練の重要性を認識させるのであって、高頻度のセッションが深いワークを決定づけるということではない、という話である。 現在、英国では多くの訓練機関で訓練分析と同じ頻度で訓練患者とセッションを持つようトレイニーに求めている。しかし、精神分析家になったあとは、より低頻度で患者と分析的にワークすることになるのだから、そうした経験を訓練中に積むことは意義があるし、訓練においてそこまで訓練患者の頻度に拘るのは(つまりそこに本質があるという態度は)、資格取得後により低頻度で患者とワークすることと論理的には矛盾する。 一方で、高頻度でできる訓練患者を訓練機関がトレイニーに紹介しなくなると、トレイニーは自分で患者と頻度を交渉することになり、本当は高頻度でもっとワークできるときというのをトレイニーは学ぶことができない。トレイニーのピアグループでいろいろな頻度のいろいろな患者とのワークをディスカッションできるといい。 訓練セラピーに頻度要件を課すことへの再考が頑強な抵抗に会うのは、訓練セラピストの特権と階級構造に根ざすところがあるかもしれない。つまり、訓練セラピストの下には高頻度で通う動機づけを持った有能な候補生が集まってくる。資格認定の基準が何なのか不透明な中で、頻度要件だけが課されていると、高頻度と高い地位が同等視されるようになる。資格を得るためには同じ訓練セラピストのところに高頻度で通い続けなければならないことになると、不安に基づく迎合が起きるようになり、思考の自由や創造性は失われる。そのような不合理な環境で育った者は、(臨床でも)観察されるように、憤怒を自己理想化へと変容させ、不合理を課す側になる。こうして、より難しい条件下で難しい臨床を行うのは、より乏しい訓練しか受けていない者たちということになってしまう。 ある頻度で臨床的にワークするには、同等の頻度で訓練セラピーを受けている必要があるという信念があるだろう。だが一方で、高頻度で訓練セラピーを受けた臨床家は、より低頻度で訓練セラピーを受けた臨床家に比べて、低頻度の治療でのアウトカムが悪いという研究結果もある。また、可能な限り高頻度にした方が、より真実味を持って効果的に深みに達することができるという信念もあるだろう。どのような条件下であれ、私たちは深くワークするよう努力しなければならないが、現行システムが深いワークを保証しているかは疑問である。よい精神分析臨床家を育てる要因は頻度だけではない。そこをよく考え直してみたからと言って、最終的な資格認定の基準が損なわれてしまうわけでもなかろう。 効果的な精神分析ワークにおいては、形式が機能し、機能が形式を求める。しかし、形式がイデオロギー化したり、共謀的に固持されるようになると、有機体としての生命力は失われる。精神分析は不確かさを内在しているので、確かなものを求めたくなるが、それは超自我の支配下に入ることであり、精神分析はそれに対してずっと挑戦し続けてきたのであった。

******************************************

要約は以上になります。

なかなか挑戦的なエッセイですが、このエッセイを誰が書いたのかということは重要でしょう。著者のポールデンは英国精神分析委員会 British Psychoanalytic Council に属しているようですが、登録されている資格は精神分析的心理療法士 Psychoanalytic Psychotherapist のようです。もちろん、ポールデンはIPAの訓練制度だけでなく、英国の精神分析的心理療法士の訓練制度のことも取り上げているようなので、身内批判の要素が全くないわけではなさそうですが、どういう制度の下で誰が誰を批判しているのかきちんと理解していないと、実際以上にセンセーショナルに読めてしまいそうです(私も英国の訓練制度についてそれほど詳しくわかっていないので、なかなか理解が大変でした・・)

また、エッセイの中で取り上げられている英国精神分析委員会の調査ですが、ポールデンは「現実にはみんなこんなに低頻度でやっているじゃないか」という主旨で引用しているものと思われますが、週1回ですら「高頻度」という現場感覚になりつつある日本の現状から見ると、むしろ開業に限らなくても週1回くらいは少なくともやっている、という意味合いの方が響くかもしれません。

いずれにせよ、このエッセイの問題提起は、セッション頻度にこだわるあまり、精神分析臨床の質を問うことから乖離し、高頻度のセッションで資格を得ることが権威主義化していないか、ということのようです。

実際、週5回の徹底した訓練分析といっても、その継続期間がどんどん延びて、平均10〜15年などということになって、50代で資格を得ることがふつうといった状況になってくると、それは資格というより名誉称号のような様相を帯びてきそうです。

かといって、ポールデンが言うように、よい精神分析臨床にはコンセンサスが得られるし、質的な認定基準も導き出せるだろう、というのも、学派間の争いを見ている限り、理想論のように思えます。

頻度要件をなくすといっても、では「年に2回だけ会って、患者が元気になったので、それを精神分析的に考察しました。これを訓練ケースにしてください」とか、「〜〜先生のところに何度か通って開眼したので、それを訓練分析にしてください」ということになったら、やはり「それはちょっと・・」と思うのではないでしょうか。でも、この「それはちょっと・・」を追究していくと、ある程度の枠組みは必要ということになるでしょう。

しかし、ウィニコットの「治療相談」や「ピグル」を見ていると、そういうケースがなくもないとも言えそうで。でもそれはウィニコットが訓練を受けていたからできたこととも言えるわけで・・。資格認定が認定しようとしている資質と、その外的要件との関係は、常に対話的に批判検討し続けるしかないのでしょう。

その苦労がよく表れていることの一つは、「訓練分析や訓練セラピーはトレイニーになる前から自主的に受けていることが望まれる」という要件のような暗黙の前提のような事項ではないでしょうか。言いたいことはよくわかります。資格取得のために訓練分析を受け始めるというのは動機からして精神分析的ではないので、精神分析的なワークに対して内発的な動機に基づいて主体的に取り組んでいた人が結果的に訓練を受けるようになったという形が望ましいという主旨でしょう。

しかし、そうはいっても事実上それが訓練機関から求められていれば、訓練を受けたい人から見れば、要件と見做されるでしょう。しかも、表向き要件にはなっていないものが事実上求められているという状況は、かえって迎合と権威化を生みそうでもあります。

とはいえ、そのような困難の中でも、精神分析的な体験を始められる人もいるのでしょうし、どんなに要件を細かく工夫してみても、誰かが誰かを認定するという構造上、ある程度、迎合的な動機も混じってきてしまうでしょう。

さて、私は何らかの訓練機関に所属して資格や認定を得たわけではないので、この問題についてはこれ以上踏み込んだことは言えません。

では、私はどうしてこの文献を手に取ったのでしょう。この文献を選んだのは開業準備の頃でした。PEPの更新時期に、その後1年間で読みたい文献をピックアップしているのですが、2022年の6月頃といえば、オフィスの部屋の賃貸契約手続きなどを終えた頃ではないかと思われます。私の個人分析は週1回でしたから、開業後も週1回よりも多い頻度でクライエントと契約することはあまり考えておりませんでしたが、にもかかわらず精神分析的心理療法専門という看板を掲げることに対して、「自分なりの精神分析の芯を見出した」などとウェブサイトで書いている私でも、おっかなびっくり怯んでしまって、「週1回でもOKよ!」という後押しが欲しくなったのかもしれません。週1回でもOKだと誰よりも知っているのは私自身なのですけどねぇ。人は不安になるとおかしな行動を取るものです(もちろんポールデンは週1回でもOKとは言ってません)。

ここで「OK」と言っているのは、私が私なりに精神分析の真価なり、値打ちなりを実感するのに、週1回という頻度は十分であったということです。他人が受けた訓練と比較して良し悪しを語っているわけでありません。ポールデンがエッセイの冒頭で取り上げている患者にも当てはまることなのではないかと思うのですが、週1回の分析セッションのポテンシャルを最大限引き出すことができるような、自分の人生が大きく動こうとしているクリティカルな一時期というものがあり、それが幸運にも、個人分析の期間と重なったということだと思います。

ところで、私はあえてそうしたわけではないのですが、結果的には精神分析の資格認定とは無縁の道を選ぶことになりました。では何を動機に個人分析やスーパービジョンを受けていたのだろうかと振り返ってみますと、確かな手応えといったことになるかと思われます。

山上千鶴子先生に関心を抱いたのはもうずいぶん前のことです。10年以上前になるでしょう。当時、お世話になっていた先輩の心理士が山上先生の個人分析を受けていました。当時の私から見れば、泰然自若とセンシティブな情緒性を両立したようなその先輩が、山上先生とのセッションでは泣き崩れたりするのだと!この人がそんなになってしまうなんて、いったいどんなセッションなのだろうと怖いものみたさのような印象が強く残っていました。おそらく潜在的には、山上先生のところに行けば手応えを得られるのでは、と期待したのでしょう。しかし当時の私にその手応えを確かめるような勇気があるはずもなく。

順番としては、まず福本修先生のところにスーパービジョンを受けに行くことになりました。クライン派への関心が高まっていたからです。しかし、福本先生から学んだのはクライン派のステレオタイプとなっているゴリゴリの転移解釈ではなく、すでに私が豊富に臨床経験を重ねながらその実態を見ようとしていなかった自閉的現象、自閉的世界に目を開くことでした。自閉的世界をよく知ることで、逆照射的に自閉的ではないというのはどういうことなのか、細やかに見ることができるようになったと言えましょう。

しかし、福本先生のところで処理能力が上がった集積回路を電源につなぐことはできませんでした。おそらく暴走するのが怖かったのでしょう。自分の回路を直接電源につなぐことなく、福本先生の受け売りをちょっと編集すれば、それなりことは言える。求められたことにはある程度答えられる。80〜90点を取っていれば、世間はそれなりに褒めてくれる。この安牌を捨てる勇気はなかなか出ません。

ところが学会で認定制度のことなどが取り沙汰されるようになると、自分の偽物感に耐えられなくなってきました。なんといっても自分自身の治療を受けていないわけですから。ここまでの流れを振り返れば、山上先生が初回面接において、私の個人分析を引き受けるかどうかかなり躊躇されていたことがよく理解できます。この人は自分のところに通うよりも、まずは学会の認定などを得て自分の身を固めたほうが、安牌を行くこれまでの生き方に沿っているのではないだろうか、あえて危険な道を進むこともなかろう、といったことを思われたのではないでしょうか。

山上先生は初回面接で、私の話を一通り聴き終えると、「なんだか味気ない人生ね」と言いました(彼女自身はそう言ったことを憶えていませんでしたので、私の空想かもしれませんが・・)。当時の私は興味を持ってもらえなかったと思って、藁にもすがる思いで、通いたいのだということを訴えましたが、考えてみるとおかしな話です。彼女は自分のところに通ってもなんの認定にもつながらないと明言していたわけですから、認定を得て「偽物感」を払拭したいなら、他のところに行ったほうが身のためだからです。当時の私は意識はしていなかったけれども、心のどこかでは、それなりに世間の求めに応えていれば、それなりに褒めてもらえて、「自分」など出さずとも安穏と生きていけるという私の人生の「味気なさ」を初回面接で看破した山上先生に「手応え」を感じていたのだと思います。ただ、山上先生が私の個人分析を引き受ける気になったのは、私が続けたいと訴えたからではなくて(あまり必死に訴えるとそれはそれで動機が不純に見えるだろうという知恵を働かせるくらいには大人の顔色伺いをする賢しい子どもでしたから)、「優等生」でコテコテに防衛した仮面の向こうに、自分の声はどこにも届かないんだと呟いているナイーブな心の動きを見て取ったからではないかと思われますが(私は初回面接の終盤で、ある記憶の回想とともに泣き崩れましたので)。この人はどうやら「偽物感」を覆い隠したいのではなくて、突破したいところもあるらしいと感得されたのかもしれません。

それから5年半、彼女のもとに週1回通うことになったわけですが、その成果の一つは、福本先生のところで処理能力が上がった集積回路を電源につなぐことができるようになったことでした。つまり、ただ知っているだけでなく、それをクライエントとの関わりの中で使うことができるようになり、アセスメントが以前に比べて素早く細やかになり、しっかりとした見込みに基づいて思い切った治療介入ができるようになったと言えるでしょう。

さて、ずいぶんと自分語りで遠回りをしてしまったようですが、訓練(とりわけ個人分析)を受ける動機が精神分析的に妥当なものかどうか、なかなか判断は難しいところです。私の動機は表面的には、最初から義務的に課されていたものを満たすというわけではなく、訓練の過程の中で自覚されてきたものです。しかし、前意識くらいの水準では、自分でも分析を受けていない「偽物感」を払拭したいという不純な動機に気づいていました。しかし、無意識的には、案外、自分の声を取り戻したいという内的衝動に突き動かされていたところもあるのかもしれません。私は認定要件と無縁の環境で個人分析を受けられたので、自分の内的な動機を探求するには幸運な条件であったとも言えるのでしょう。もし自分の個人分析が資格認定と結びついていたら、もっともっと防衛が固くなっていたのではないかと、当時の自分を振り返って思います。だからこそ、そうした資格認定を目指した構造の中で自己探求をしていくことができた人は、より一層、防衛を突破することに関して感慨深い経験をすることにもなるのかもしれません。しかし同時に、迎合的になったまま認定要件だけを満たして資格を得るという過程を歩む人もいるのかもしれません。

このブログの人気の投稿

見たくないものは見えない

臨床に立ち返ること