皮膚の破れ
今回は古い文献です。
Bick, E. (1968) The experience of the skin in early object relations. IJP, 49, 484-486.
古い文献ですし、短い論文ですが、付着的世界を感得する上でとても示唆に富む文献です。ご存じの方も多いかと思いますが、一応、押さえておきましょう。
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皮膚の根源的機能について。パーソナリティの各部分は最も原初的な段階においては、自ら一つにまとまることができないので、受身的に一つに抱えてもらうことが必要であり、これが皮膚の境界機能である。この機能が対象から取り入れられて初めて、内的空間と外的空間という空想が発生する。クラインが述べたような原始的な分裂と理想化が始まるのはここからである。それまでは自己の内的空間という概念は発達しておらず、したがって投影同一化は留まるところを知らず、同一性は混乱し続ける。
心的皮膚の形成段階においては、無力にバラバラになっていくという受動的な破局体験と、発達の一過程における防衛操作として統合を解体する迫害‐抑鬱体験との間を行ったり来たりする。乳幼児発達に沿って言えば、この段階のコンテインは感覚的な注意を集めることであり、光‐視覚、声‐聴覚、匂い‐嗅覚などが焦点となる。乳首をくわえ、声をかけられながら抱っこされるという体験が最適な対象の経験となる。心的皮膚機能の取り入れがうまくいかないと、第二の皮膚が形成され、これによってまとまりを保つのが偽自立である。
乳児観察事例。いくらか未成熟なところのある母親。赤ちゃんの生後12週までには皮膚コンテイナーの機能がだいぶできあがり、それに伴って、母親は赤ちゃんと接触していることに不安が少なくなり、赤ちゃんが生きていることを確かめるために興奮させるという必要性も減っていった。しかし、ここで転居があった。母親は新居に馴染めず、赤ちゃんから引きこもった。赤ちゃんには身体的問題が頻発した。父親も病気になり、母親は仕事に戻ることを決めた。そこで母親は赤ちゃんに偽自立を迫った。離乳トレーニングを進め、バウンサーを導入し、赤ちゃんが夜泣きしても応えなくなった。そして、攻撃的になることで生きていることを示すよう、赤ちゃんを刺激し焚きつける早期の傾向に逆戻りした。その結果、生後6ヶ月半までには、多動で攻撃的な女の子という仕上がりになっていた。人の顔をポカポカ殴るので、赤ちゃんは母親から「ボクサー」とあだ名されていた。これは筋肉によって自分を包み込む第二の皮膚である。
統合失調症的な女の子の分析。出生時にも困難があり、早期から乳首に噛みつく割には母乳を飲むことにはあまり熱心でなく、生後3週で哺乳瓶が導入されたが11ヶ月まで離乳できなかった。4ヶ月でひどい湿疹があり、血が出るまで掻きむしった。母親へのしがみつきが凄まじく、授乳を待たされることに全く持って耐えられなかった。3歳半で分析開始。分離への不耐性は転移においても明らかで、最初の休暇のあとあらゆるものを噛み砕き、引き裂いた。すぐに対象に接触できないと、姿勢や運動面でも、思考やコミュニケーションの面でも、未統合状態が現われた。これはセッションの中で改善するものの、セッションが終わると元の木阿弥だった。彼女は猫背で関節はこわばっており、後に彼女は自分で「ジャガイモのずだ袋」みたいだと言ったが、そのとおりの奇異ななりであった。この表象は、中身がいつこぼれ落ちるかわからないという危険性を暗示しているようだった。というのは、彼女の一部(ジャガイモ)を包む「ずだ袋」は穴だらけ(血が出るまで掻きむしった皮膚)の皮膚対象だったからだ。背筋が伸びるにしたがって、彼女の全般的な依存性も減弱していったが、それは包み込む対象との同一化よりも、自分自身の筋肉による第二の皮膚形成に頼るようになったからだった。
神経症の患者の分析より。ある女性の自己状態は「リンゴのずだ袋」のようであった。ちょっとしたことですぐに機嫌を悪くし、中身もないくせに自惚れが強く、常に注目と称賛を必要としていて、容易に傷つき、いつも自分が崩壊してしまうと予期していた。別の男性の自己状態は「カバ」のようであった。攻撃的、高圧的、独断的で、他者を酷評し、そんな自分を顧みるということがなかった。「カバ」というのは第二の皮膚(厚顔)であり、このような無神経な皮膚の内側に傷つきやすい薄皮のリンゴ的自己がいる。
ある5歳の子どもは、授乳期に食欲を示さなかったという過去を持っていたのだが、分析の初期には休暇の際に執拗に母親を求め、服をしっかり締め、靴紐を固く結ぶという形で皮膚コンテイナーの問題を抱えていることを示していた。分析が進むと、彼女は玩具と自分を区別するニーズを示し「玩具と私は違う。玩具はバラバラになると元に戻らないし、皮がないけど、私達には皮がある!」と述べた。
以上、どの患者も最初の心的皮膚機能が形成不全のため、第二の皮膚を形成した者たちである。第二の皮膚によるまとまりはかりそめのもので、発達後も退行とは違った未統合状態を招きやすい。それは運動面やコミュニケーションの面でも現れる。第二の皮膚は筋肉の殻のようなものであったり、言語的な筋肉性として現れたりする。第二の皮膚を分析すると未統合状態が現れるが、ここで分析の設定と厳密な技法がコンテイン機能を担う。原初的な母親対象への依存がワークスルーされると、次第に基底にある脆弱性が改善していく。
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要約は以上です。
自閉的な対象関係を論じるうえで必ず引用される本論文ですが、ビック自身は自閉症について論じたわけではありませんでした。クラインが記述した分裂的世界が実質を持ち始めるさらに以前の原初的な発達段階を記述しようとした論文です。
実際、ASDでなくても自閉的な心的状態を示すケースはよく見られますから、現在でもこのような議論を自閉症のための概念というよりは、自閉症を含む様々な自閉的心性の現われを理解する概念と考えておくことは臨床における汎用性を高めてくれるでしょう。
さて、ビックは心的皮膚が形成されて内的空間ができるまでは投影同一化は留まるところを知らず同一性は混乱し続けると述べています。この臨床における現われの一つは、一貫した自己体験がなく、その都度、注意を引くものに吸い寄せられてそれっぽいことを言ったりやったりし始めるが、意味的な連関や個人的な意味を実感できておらず、また次の注意を引くものに移ろっていくような現象だと思われます。これは後に付着同一化と呼ばれるようになり、投影同一化を使えない状態なのだと理解されるようになりました。
発達的には、この注意の焦点となるものが、皮膚形成段階におけるコンテインとなるということですが、コンテインというと包み込むことを連想する言葉なのに、注意の焦点という中心点のようなものを連想するものがその機能を果たすというのはちょっとわかりにくいです。ここでは、まとまった自己感がまだないというところがポイントです。物理的には一人の人間に見えていても、心理的な体験としては、一瞬一瞬の感覚が現われては消え、現われては消え、という状態で、自分という一人の人間が生きているという実感になっていないと想定されます。ですから、包み込む容れ物があっても、入れるだけの中身がない状態です。たとえ一時的に包むことができても、液体のようにこぼれだしたり、空気のように漏れ出したりするかもしれません。そこでまずは、注意の焦点が現れることで、様々な感覚がまとまってつながることが必要なわけです。均一な溶液の中で核が形成されると結晶化が始まるようなイメージでしょうか。人間発達においては、抱っこされて声をかけられながら親の顔を見ているという状態が、代表的なイメージとなるでしょう。それが繰り返されることで、次第にいつもつながって生じる感覚がまとまってきて、自己が結晶化されてくるわけです。そうなると、包む中身ができたことになるので、包み込むという意味でのコンテインが意味をなす世界に入るというわけです。
すると、心的皮膚というのは提供されるものというよりは、結果としてできあがるものかもしれません。包み込むものが皮膚になるというと一見わかりやすいですが、生成過程という意味では、注意の焦点にまとまることを繰り返すことと、次第にそれが外側と区別された中身として体験されるようになることは同時並行かもしれません。
逆に言うと、まとまるという経験のないまま、表面だけ包み込んで一つの個体に見せているものが「第二の皮膚」ということになるでしょうか。論文の事例では最初の2例は筋肉的な第二の皮膚を例示しています。筋肉的な第二の皮膚というと、ボディビルのような筋肉の鎧を連想するかもしれません。しかしそれだけでなく、まとまりの経験がないことを隠すという意味では、最初の乳児観察事例のように、多動に頼るという道もあるのでしょう。常に動き回ることで、興奮を焦点化するまとまりに代替しつつ、まとまりのなさが露呈する前に注意の対象を次々と変えていくというわけです。その対象を真似る、すぐに影響を受ける、心酔する、といった形になれば付着同一化の様相を呈してきます。
次は薄皮と厚皮の自己愛を連想させる事例に言及されます。厚皮に関しては英語のthick skinと日本語の「面の皮が厚い」という表現が似通っていておもしろいですね。面の皮が厚いというのは、羞恥心が顔に現れないほど皮が厚いということで、羞恥心を欠いた厚かましさを指しますが、羞恥心は自己愛の問題を抱えた人にとって最も怖れられる感情の一つです。恥がそんなにも怖れられるのは、一つには、他者の視線が外的な行動に留まらず、身体の奥深く、精神の内奥にまで鋭く刺し貫いてくるように感じられるからで、このようなタイプは内面のプライバシーを保つことができないという点で心的皮膚に綻びがあるということになるかもしれません。
逆に言うと、通常、恥ずかしいというときには、外に出してしまった行動について言っているのであって、内面までは見られていないという保証があるから行いを改めるゆとりが生まれるのかもしれません。内面における恥ずかしさは、情けない、申し訳ない、という感情に近づいていくのかもしれません。このあたりの境界線がしっかりしていると、外に出すべきではないことは内面に収まっているという安心があるので、面の皮は通常通りで問題ないわけです。ところがこの境界線が曖昧だったり、綻びがあったりすると、内面にあるはずのものがうっかり外面に浮き出てきてしまうかもしれないので、面の皮を厚くして無理矢理に隠しておくしかないという場合もあるのでしょう。
最後のところでビックは言語的な筋肉性も第二の皮膚になりうると述べています。この記述から私が連想するのは、非常によく話すのだけれど、こちらがなにか本人の考えや展望を問う質問をすると、ピタリと止まってしまって何も言えなくなるという人です。事実を聞かれると答えられます。しかし、自分の考えを聞かれると何を答えればいいのかわからなくなってしまうようです。このとき、私たちはその人の第二の皮膚を突き破ってしまったのかもしれないという仮説を持っておくことは臨床上大切であるように思います。
つまり、そのとき一人の人が沈黙している(それならその人の考えが出てくるまで待つという選択肢がある)という事態ではもはやないかもしれないのです。その人を一人の人というまとまりに見せていた袋はすでに破れ、まとまればその人になるはずの欠片がバラバラと崩れ落ちているところなのかもしれません。そのとき、何を答えればいいのかわからないというのは、批評を怖れているといったことではなく、文字通り何一つ頭の中に言葉が結ばないという事態を言い表しているのかもしれません。だとすれば、待つという形で放っておくことはできません。バラバラになったその人の欠片を拾い集め、注意の焦点となるような何かをするなり言うなりしなければなりません。
このように、非常に薄く脆弱な第二の皮膚でかろうじて自分をこの世に繋ぎ止めているような人に出会うことは、臨床現場によっては増えているのではないかと思われます。そのようなときに事態を察知し、応対するうえで、本論文は貴重な示唆を与えてくれるように思われます。
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