可能性を探り、ベストを尽くす
今回取り上げる文献はこちらです。
Harris, M. (1971/2011) The Place of Once-Weekly Treatment in the Work of an Analytically Trained Child Psychotherapist. Journal of Child Psychotherapy, 3(1), 31-39. in Harris, M., Bick, E. & Williams, M. (2011) The Tavistock Model. Ch.4.
「精神分析の訓練を受けた子どもの心理療法士の仕事における週1回治療の位置づけ」といったタイトルでしょうか。文献の中では週5回の分析の恩恵に浴している訓練生が週1回の治療しか子どもに提供できない罪悪感などにも触れられていますが、今や私たちは週1回でも「高頻度」と言えるような時代を生きています。また、治療者側があまり訓練の恩恵に浴していない日本の状況では、何が投影されるのでしょうか。置かれた状況や時代によって、一つの設定の意味は変わってくるでしょう。それに応じて設定をどう活かすかという技法も変わってくるかもしれません。ではまず要約してみましょう。
*****************************************
自分たちは週5日の分析を受けているのに、ニーズの高い子どもに週1回しか提供できないとき、罪悪感が引き起こされる。しかし、実行可能かどうかを考えずに、強迫的にすべての子どもに平等に高頻度の治療を提供しようと考えるとしたら、そこには未だ私たちの中で働いているエディプス葛藤や同胞葛藤が関わっているだろう。その罪悪感を埋め合わせようとして、週1回の治療で理論的な解釈を多用したり、過度に能動的になったり、セッション外で得られた情報を早計にセッションに持ち込もうとするかもしれない。あるいは逆に、週1回程度でなにか起きるわけではないと座して諦め、あとは環境要因次第で多少よくなるかどうかだと考えることで、自分たちが不適切なことをしているわけではないと思おうとすることもある。あまりにも多く週1回のケースを抱えてしまうと、難しい子どもばかりのクラスを担任する教師のように、一人一人に十分な注意を注げなくなる。セッション間隔が空くと、解釈の効果が見えづらくなり、分析プロセスへの信を維持するのが難しくなる。ただ、逆に言えば、家族を始めとする患者の環境要因の貢献を過小評価してしまうリスクは、週1回治療の方が少ないかもしれない。とはいえ、その場合でも、もっと時間があればもっとできたのに、と言い訳したくなるリスクはあるのだが。分析ワークそのものへの関心とワクワクするような喜びは重要である。高頻度の治療の方が安全に進められるからと言って、あまりにも安全性を求めてしまうと、週1回でもワークしてみようという勇気を挫くことにもなりかねない。私たち自身が週1回の治療におもしろみを感じていなければ、週1回治療で子どもが体験することは苦痛ばかりではないと信じることは難しいだろう。高頻度でなければあれもこれも扱えないとか、来週まで埋め合わせできないのにこんな突っ込んだこと言えない、などと心配していると、解釈することに対して臆病になってしまう。感受性と臆病さを区別する必要がある。
治療が行われる枠組みを明確にし、患者に過度の期待をさせないことは重要である。セッション頻度が少なくなれば、転移を十分に展開させることは難しくなる。週2回なら、まだしも治療者と会える時間と離れている時間という分離を巡るパターンができあがるが、週1回ではそれも難しい。行動化に関しても、高頻度の治療とは異なった考えが必要である。あるセッションで完結しなかった転移素材は、翌週のセッションまで持ち越されるのではなく、子どもの日常の環境における人々に対して展開するのが一般的である。高頻度のセッションであれば、毎日のセッションで繰り返されることから自然と素材の繋がり見えてくるが、週1回では素材の繋がりを見失わないために面接記録を頼りにする必要がある。とはいえ、先週までの面接記録というのは原則として今日の子どもの素材からは遅れを取っているわけであるから、あまり面接記録に頼りすぎるのもよくないが。
他職種との協働は欠かせないし、週1回では若い患者が治療者との分離を乗り越えることも大変なので、彼らを治療に行くよう励ましてくれる親の存在も欠かせない。親自身も親担当者との分離に反応して親子で治療を止めてしまうということもあるが。週1回の治療においては家族や現実生活に関する情報は有用ではあるものの、それらの情報に影響され過ぎて、子どものことを親の視点や他職種の視点で見ることにならないように注意が必要である。その危険性に自覚的でありさえすれば、親担当者との情報共有は有用である。私たちはしばしば親の欠点を見がちだが、親が持ち堪えなければならない子どもからの投影がいかなるものかわかってくると、親担当者も親に対して協力的な姿勢になれる。
週1回の治療では、妄想不安を減じ、攻撃性をより抱えられるようになったり、パーソナリティの各部分の間の混乱が整理されたりするが、抑鬱ポジションのワークスルーが深くまで進展することは困難である。
週1回の治療においては、高頻度の治療以上に決められた時間にきちんと通うことが求められるので、家族にそのような機能が期待できるか、そのような機能を果たしてくれる家族の代理(学校等)が見つけられるかが重要である。思春期以降は、本人が援助を受け入れるだけの自我の強さをどのくらい持っているかが重要だが、その場合であっても、親の機能は重要である。つまり、親から見れば、治療者や治療チームは自分たち以上に我が子と濃密な関係を持っている(と想像される)わけで、その嫉妬に親自身が自分の中で対処できるかどうかということである。そもそも時間が空いていないから、という場合もあるだろうが、週1回から治療を始めるのを基本にして、ワークが進展するにしたがって、後から頻度を増やすという選択肢もありうる。そうやって週1回のケースが増えていくと、訓練生の訓練要件を満たせないということも起こってくるかもしれない。しかし、高頻度の治療が、患者の都合よりも治療者の都合で行われることは不幸なことだろう。週1回を基本に治療を始めるようになると、こちらが提供できる範囲のものでも患者はけっこううまく使いこなしていくことや、どんなケースなら高頻度にする意義があるかということが、よく見えてくるだろう。
週1回では転移解釈をする機会はあまりないかもしれないが、精神分析の訓練を受けた治療者ならば、観察の技法を用いることができる。転移‐逆転移を観察し、それを解釈するのではなく、患者の言語と行動を意味ある形で結びつける再構成的なコメントに用いることで、患者は自分の不安について考え、持ちこたえることができるようになる。これは青年期のケースや、治療期間が限られているケース、ふだんなら良好な親子関係が急性の不安状態で混乱しているケースなどで有用である。しかし、防衛が強固であったり、情動が強力に分裂排除されていたりするケースではあまり効果がない。
週1回の治療を行う上で必要な訓練は、やはり治療者自身の個人分析と、より高頻度の治療に取り組んだ経験である。しかし、通常の分析技法を学ぶだけでは、柔軟で創造的な治療を行うことはできない。乳幼児観察に代表される方法で、通常の子どもの発達を詳細に観察する経験が、何物にも代えがたい基礎を提供する。そして、分析設定以外の様々な臨床現場での経験を持ちより、そこで観察したことをディスカッションするという経験も重要である。これらの経験によって、どのような臨床状況でも想像力を失わないゆとりを持つことができるようになる。
週1回の治療を行うことで、私たちはより多くの子どもたちを見ることができ、アセスメントもより精緻なものになる、という利点もある。とはいえ、多くのクリニックで週1回の治療が行われる理由はより現実的なもので、多くの子どもたちを診なければならないからである。これが、より高頻度の治療を求めて個人開業する治療者が多い理由でもあり、それゆえにまた、クリニックで高頻度の治療を持てる治療者が不足するということにもなる。一人の治療者が一度にどのくらいの人数の子どもを診ることができるのか、というのは治療者によって異なるので、自分にとって最適なバランスを見つける必要はある。自分自身の成長のために、高頻度の治療を行う時間を確保することも必要だろう。また一方、さらに多くの子どもや家族を診るためには、集団療法を用いることも必要だろう。いずれにせよ、これらの治療は、治療者にとっても、子どもや家族にとっても、さらに探求してみるのがいいだろう。
******************************************
要約は以上です。
この論文は、治療者が高頻度の個人分析を受けていることが当たり前の時代と環境を前提に書かれていることを最初に押さえておきましょう。でないと、濃厚で集中的な訓練を受けていない多くの日本の臨床家は、やはり専門性が低いのだろうという自己卑下に嵌ってしまうからです。実際には、その落とし穴こそ、マーサ・ハリスがこの論文で注意喚起しているところでしょう。枠組みに強迫的になるのではなく、分析的な創造性をもって、様々な臨床設定に果敢に挑戦しよう、そこで探求を続けよう、ということです。
論文では、「こんなに集中的な訓練を享受している自分たちが、苦しんでいる子どもには週1回しか提供できない」という罪悪感が指摘されています。このちょうど逆が私たち日本の多くの分析臨床家かもしれません。つまり、「イギリスのような濃密な訓練を受けていない私たちには、クライエントに本格的な分析治療を提供することはできない」という気後れ、疚しさです。このどちらもが、その場でベストを尽くすという専門家としての責務に対して二の足を踏んでいます。
週1回の治療では、高頻度の分析治療とは違った展開が起きるし、違った技法が必要になる、というのはその通りでしょう。ただしそれは、高頻度の縮小版ということとは限りません。マーサ・ハリスが述べているように、いわゆる行動化の意味合いが変わってくるというのもその一つです。行動化が問題視されるのは、全てが治療者との転移関係で展開することが可能な設定(高頻度)があるにもかかわらず、外に漏れ出るからです。しかし、週1回治療では、そもそも全てを治療者との転移関係に収めることは不可能です。したがって、週1回治療における行動化とは、分析関係に収まるべきものが現実生活に「漏れ出た」ものというよりも、分析関係で得た経験が必然的に現実生活に「波及」していくものというふうに言った方がいいのではないかと思います。
週1回の治療においては、「転移‐転移外」という区別はあまり実態を捉えていないように思います。むしろ、治療開始とともにクライエントの日々の生活全体が分析ワークの場になるのであり、その場の中に治療者も含みこまれていくというのがより実態に近いのではないでしょうか。
その意味で、「観察」という言葉にも些か疑問があります。マーサ・ハリスが言わんとするところには同意するのですが、果たして「観察」という言葉でそれを捉えられるのか、ということです。おそらくこの言葉が選ばれているのは、事態を何とかしようとするのではなく、進行中のプロセスを感じ取り、理解することが精神分析の訓練になるというニュアンスを表現しようとしてのことなのだと思われます。しかし、逆転移の理解を重視する姿勢からもわかるとおり、観察者自身がそのプロセスの中に含まれていることが前提とされているわけです。すると、第三者的な位置から客観的に見るというニュアンスを持つ「観察」という言葉で表現するのは少々無理があるように思われます。
では「参与観察」という言葉ならどうでしょう。これなら観察者自身が観察対象であるプロセスに含まれているというニュアンスを捉えています。しかしながら、精神分析のプロセスは大部分が無意識です。観察が終わったその日に記録に起こせるような類のものではありません。もちろん毎回面接記録は書くわけですが、事態の全体像が見えてくるのは毎回のことではありません。2,3ヶ月分くらいのプロセスがある時点である視点から急に像を結ぶというのが、よくある週1回治療の進み方のように思います。その意味で、「観察」という言葉には意識的に行うことというニュアンスがあるように思われ、その点で今一つです。その弊害は、治療者が逆転移に意識を向けようとしすぎて硬直してしまうことです。週1回では、逆転移を意識しすぎると、あっという間に1セッション終わってしまいます。翌週にはまた別のことが起きているわけなので、下手をすると治療者は何もできないままになってしまいます。
「観察」という言葉でないとしたら、何がいいでしょうか。私は「進行中の分析プロセスに身を委ねる」というのが、マーサ・ハリスが言わんとしている「観察」に近いのではないかと思います。ベンジャミンのsurrenderという言葉も近いニュアンスではないでしょうか。クライエントの生活全体が分析ワークの場になり、そこに治療者も含みこまれる、という週1回治療の展開の仕方ともよく一致するように思われます。逆に言えば、高頻度の治療では、「観察」という言葉がしっくりくるような治療者のポジションというのがあるのでしょう。
ここまで週1回治療の特徴と思われるものを述べてきましたが、それと同じように、隔週には隔週の、月1回には月1回の、オンデマンドにはオンデマンドの、集団には集団の、家族面接には家族面接の展開というのがあるのでしょう。どのような現場・設定でも、精神分析の創造性との接触を失わずに探求を続けたいものです。
とはいえ、様々な現場での分析的探究の基礎にあるのは、やはり高頻度の個人分析の経験と、標準的な分析技法を学ぶことだとマーサ・ハリスは述べています。この点では、私も不十分で不徹底な訓練しか受けていないと言わざるを得ませんし、多くの日本の分析臨床家もそうでしょう。いずれは日本でも豊かな訓練を受けやすい環境が整うでしょうか。ただ、国際的に見ても、訓練目的に限っても高頻度のセッションを確保することは難しくなっている情勢のようです。
論理的には、技術革新という観点から見れば、これまで5日かかっていたものが、3日でできるようになり、1日でもできるようになる、という発展の方向もありえます。とはいえ、産業革命的な技術革新と、人と人との関係の展開を同列に語るのも乱暴でしょう。また、技術革新が起きた後でも、職人の手仕事の価値は失われない(むしろ希少性が高まって高付加価値になる)というのも事実でしょう。
なかなか居場所を定めるのが難しく、尻の据わりが悪いですが、そういうときに拠り所となるのは精神分析の創造性に触れた経験・実感です。それは標準的な訓練でしか得られないとは限らないかもしれません。