臨床に立ち返ること

 今回取り上げる文献はこちらです。

Rosenbloom, S. (2019) Working Through: Reflections on the Patient's Contribution to the Analytic Process. Canadian Journal of Psychoanalysis, 27, 310-321.

「ワーキングスルー:分析過程に対する患者の貢献についての省察」といった感じでしょうか。教科書通りではないという怖れから、本当の治癒要因が公表されないという問題は日本だけではないようです。ではまず要約してみましょう。

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精神分析は患者自身が進めていくものだという考えは新しいものではない。本論では、分析においてもやはり患者は自分の人生に目鼻を付けようと一生懸命だということ、そしてそのときの心的プロセスに着目してみたい。ワーキングスルーという概念は、解釈による驚きと洞察という分析体験とは対照的に、何度も何度も同じことを繰り返し、少しずつ、ほんの少しずつ積み重なっていく分析過程というものに焦点を当てている。患者自身が繰り返し自問し、自分自身で変わっていくプロセスを、分析家は待つことができなければならない。

分析過程は複雑で、分析家も患者もともに何がワーキングスルーを進めているのか全てを把握できているわけではない。解釈以外の様々な要因が関わっており、分析家も解釈以外の形でワーキングスルーに寄与している。分析家の解釈によって洞察が得られるという考えは疑わしい。患者は多くの場合、解釈を額面通りには受け取らない。患者なりにそれまでにはなかった認識を納得して受け入れていく無意識的なプロセスがあるものと思われる。

ある患者は数年間、週1回の心理療法を続けたあと、頻度を増やして精神分析に入った。分析家はあまり期待していなかったが、患者はそれまでとは打って変わって自由連想の才を示し、夢を見て、転移をセッションで扱えるようになり、洞察とはいかなるものか掴んでいった。患者は現実生活でも大いに進展を見せたが、うまくいっている最中で突然やる気をなくした。しかしそれでも、患者は現実生活において上々の仕上がりを見せた。それは結果的には、失敗を怖れて強迫的に努力するというような超自我不安が緩んでも、しっかり力を発揮できるということを確かめるような経験になった。患者はさらに性的対象選択の問題に取り組むようになった。性に対する恐怖から対象を遠ざけるか、女たらしになるか、というドン詰まりの葛藤の中で、同じ価値観を持って高め合えるような相手を選ぶという出口を示唆するような夢を見た。それは、これから現実生活において実地に取り組むことを先取りしたような夢であった。

別の患者の例。週2回、カウチの分析治療を受けていた。「ダメンズ」にばかり惹かれてしまい、まともな男性と関係ができそうになると、それを避けるようなことをしてしまう傾向があった。治療に進展があり、まともな男性と関係を継続しようと試みるようになってきたとき、あることで退行した患者は、再び「ダメンズ」に連絡を取ってしまう。しかし、このとき患者は自分の感情を自覚し、「実は前にもこういうことがあって、連絡はしなかったが、そうしたいという気持ちを自制するのが大変だった」と振り返った。

患者が新しい在り方を自家薬籠中のものとするまでにはずいぶんと「練習」の期間があるもので、そのワークスルーがどんなふうに進むのかは実際のところ、治療者にも患者にも全部はわからない。スーパービジョンをしていると、多くの分析家や治療者が、「これは精神分析的な介入ではないのですが」と恐れながら、このような解釈のその先のワークスルーの在りようを報告する。私の主張は、適切に行われた分析において、臨床家は様々な介入に頼るものであり、それでこそワークスルーは進むのだということである。分析コミュニティからの審問を怖れて、みんなそれを書かないだけなのではないだろうか。

たとえば外傷性の患者は分析の場が安全だと感じられるまで長い間、解釈を侮蔑と体験するし、非常に慎重に進む必要がある。また、情動的な体験は大事にしまっておいて、何か新しいことを試みるときには分析家に秘密に行うこともある。あるいは、ワークスルーは最後の最後まで無意識に進んでおり、意識的洞察は終結まで起こらないという場合だってある。これらのことが意味しているのは、考える方法は一つではないということだろう。いわゆる行動化が考える方法であることもあるだろう。何度も試したり、同じことを繰り返したりするものである。ワークスルーの担い手は患者であると心得ることだろう。

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以上が要約になります。

なお、このブログは正式な文献の引用元となることよりも、臨床家のヒントや示唆となることを目的としているので、今回からより一層、いわゆる直訳や翻訳調に縛られず、論文のおもしろみが伝わるような要約を志すことにしました。

要約をご覧いただければおわかりかと思いますが、そのようなブログの方針変更に呼応するような論文であったように思います。教科書や権威に縛られずに、現場で起きていることの実態を見ようじゃないかということですね。

解釈によって変化が起こるのか、それとも無意識に取り組まれていたワークが一定の理解に達した結果現れてくるものが解釈なのか。おそらくどちらもあるのでしょう。解釈がすべてを引き起こすわけでもないけれども、解釈なしで治療が進むわけでもない。解釈は後で変わりうるし、分析関係を維持することがむしろ解釈の機能だ、と言えなくもないけれども、だからといって何を言ってもいいわけでもない。やはりそのように機能する言葉選びというものはある。

そしてまた、今回の論文でも取り上げられているように、行動化を通して進むワークスルーというものもあるように思われます。たとえばある程度治療が展開したところで、分析患者があらためて原家族と関わるといったようなことが起こります。これは迫害不安を治療者から逸らすための防衛だと理解されることもあるのでしょうが、原対象との邂逅ということもあるでしょう。

そこで、自らの投影を引き戻したうえで、相手の意外な一面に出会うこともあるでしょう。あるいはまた、「ああ、これが嫌だったんだ」と迫害不安の現実性に触れる機会となることもあるでしょう。それは自分がどのような境遇を生き延びてきたのかという自分への眼差しを回復することでもあり、背負ってきた親の無明を親に返し、自分は自分の人生を生きることへの契機となることもあるでしょう。

つまり、どちらに転んでも、経験から学ぶきっかけとなるわけで、治療の重要な転機となることがしばしばあるという印象を持っています。

また、ここでもう一つ視点を変えて、解釈とはなんなのだろうということを掘り下げてみたいと思います。山上千鶴子はウェブサイトで過去のセッション記録を公開するにあたり、自分が分析患者に語った言葉を「語られた言葉たち」と呼んで、関心を向けています。ここに含意されているのは、分析セッションにおける治療者の解釈あるいは言葉は、治療者単独の産物ではないということです。その分析患者との分析ワークでなければ治療者から語られることはなかったであろう言葉という視点です。

ある分析患者の分析ワークにおいて意味を持つ言葉が、分析患者から語られることもあれば、治療者から語られることもある。それが誰から語られたかは実はあまり本質的なことではなく、その分析ワークにおいて紡がれてきた言葉がなんであれ、関心を向け、意味考えていくことが精神分析であるという臨床哲学です。

実際、治療者自身も連想に身を委ねてみると、思いもよらなかった発見に至ることを分析セッションにおいてはよく経験します。分析を展開させるのは治療者でも分析患者でもなく、二人の分析関係、ならびにその分析関係は治療者にも分析患者にもコントロールできるものではないという諦念の先にある、ならば何が見えてくるのだろうかという好奇心です。一言で言えば、内的結合両親像の創造性に信を置くことです。

このように考えてくると、分析患者が自分で理解することを妨げないように、あまり治療者が解釈しすぎない、わかりすぎないこと、解釈を控えることといったような、理想化された見守る治療者(謙虚でやさしい治療者?)イメージに含まれた欺瞞があぶり出されてくるようです。この考えにおいて、暗黙の裡に想定されているのは、「解釈は治療者が生み出したものだ」という前提でしょう。さらに言えば、「本当は自分はもうわかっているんだけど、先に言っちゃったらかわいそうだから、患者に言わせてあげよう」というように、傲慢にも分析患者を子ども扱いする動機も含まれているかもしれません。

ここで、治療者の心に浮かぶ解釈は分析患者との分析ワークによってもたらされたものだという前提があれば、それをできる限り分析セッションの場に還元し(つまり声に出して言う)、さらなる分析ワークの素材とすることが、治療者がなしうる貢献であるように思われます。

Introduction to the Practice of Psychoanalytic Psychotherapyにおいてレマも言っていることですが、精神分析の技法的な原則というのは、それがベストだと証明された決定版ではなく、他のやり方よりも効果が高いエビデンスがあるわけでもなく、せいぜい「今まではそれでうまくいってきたよ」、という経験則です。精神分析とはなにをやっていることなのか、どうしたらそれが進展するのか、という問題は、今後も私たちの興味深い探究テーマなのだと思います。

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