見たくないものは見えない

 久しぶりの更新です。今回取り上げるのは次の文献です。

Salter, M. (2019) Malignant trauma and the invisibility of ritual abuse. ATTACHMENT: New Directions in Psychotherapy and Relational Psychoanalysis, 13, 15-30.

「悪性外傷と儀礼虐待の不可視性」といったタイトルでしょうか。儀礼虐待とは、カルト的な宗教儀式の中で行われる児童虐待や性的虐待のことで、1980年代にセンセーショナルに注目を集めた後、虚偽記憶との絡みでバックラッシュが起き、その結果、都市伝説化して専門家からも懐疑的に見られるようになってしまったもののようです。

では、まず要約してみましょう。

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この論文は、儀礼虐待の不可視性を説明するために悪性外傷に関する精神分析的理解を引用するものである。儀礼虐待は子どもに対する組織化された性的虐待において儀式を悪用するものであり、虚偽記憶であるとする批判にも関わらず、1980年代以降も起訴された事案は存在している。犠牲者やサバイバーの一貫したテーマは不可視性である。専門家の間でも、外傷と解離に関わる臨床家以外にはあまり認知されていない。サバイバーは儀礼虐待の事実を社会から認められないし、治療者もまた、専門家集団から懐疑の目を向けられる。本論では、儀礼虐待のサバイバーと精神保健の臨床家へのインタビューを通じて、儀礼虐待とその不可視性が心理社会的構造の中で共構築されていくと主張する。

精神分析の諸理論は、子ども時代の早期における外傷が、家族やコミュニティの文脈を経て、暴力的な加害(外傷を与える側)につながっていく道筋について理解を試みてきた。本論では、グランドの「悪性」外傷の概念と、アルフォードの外傷となる環境と、外傷を与える残酷さとを結びつける社会的文脈の研究を参照する。彼らは、暴行や侵害の事実が、加害者からだけでなく、傍観者やコミュニティ、歴史からさえも抹消されることを指摘し、このことを「邪悪」と呼んだ。この邪悪さはオグデンが言うところの自閉−接触ポジションに属する経験である。うまくいけば、無限の世界への畏敬の体験となるが、外傷的になると脆弱性と孤独に対する恐怖と脅威の体験となる。悪性外傷とは、自身が過去に外傷を受けた加害者が、自閉−接触ポジションの脅威を他者に排泄するために暴力を利用することである。アルフォードによれば、サディズムと攻撃性の違いは、被害者への同一化である。サディズムとは、被害者であるという経験を他人に押し付けることでコントロールする楽しみなのである。加害者と傍観者の共謀によって、その脅威の受け皿とされた被害者は忘れられていく。被害者が被害を訴えても、実存的な脅威を見たくない社会によってまたしても否認される。こうして被害者はさらなる屈辱を受け、邪悪は再生産される。

儀礼虐待のサバイバーへのインタビューからわかってくるのは、彼らがしばしば腐った液体のような自己像を持っていることである。これは自閉−接触ポジションに基づく体験であり、また、凄惨な儀礼の中で実際に強化される感覚でもある。こうして、被害者は平和、喜び、寛容さ、愛、信頼、光、善良さ、真実、家族、世界への信、神への信、自己への信、といったよきものを完全に破壊されていく。「完全になき者」にされた被害者の「破局的な孤独」を一時的に慰めるのが性的興奮であり、被害を受けた子どもたちは、自分よりも小さな子どもたちを性的に虐待することを強制される中で、このことを知っていく。こうして、外的に介入しない限り、儀礼虐待は世代間伝達していく。儀礼虐待は加害者にとっては他者への暴力によって意味と生命力を得る経験となる。儀式として拷問を行うことが不死をもたらすといった妄想的信念を持っていることは、儀礼虐待を行う集団の特徴の一つである。

儀礼虐待が経済的に裕福な家庭で行われると、その社会的なファサードのため、児童福祉の専門機関も事の重大さを見逃すことがある。被害者自身も解離性障害を発症するため、記憶がなく、記憶が回復したとしても全てを思い出すことは難しい。社会的地位があり、経済力のある親が、すすんで事実を認めることも期待できない。こうして、儀礼虐待は不可視化されていく。

性被害や暴力被害を受けた人を支援する機関も、財団や政府からの助成を得るためには、報告書等に「儀礼虐待」と書くことができず、「組織的に行われた虐待」とか「過去から続き、現在にも影響のある外傷」といった薄めた表現を用いざるを得ない。これは支援を継続するために必要な戦略だが、一方で邪悪が再生産される要因となる社会や政府による無視や否認を維持することにもなってしまう。

グランドは邪悪の再生産を止められる可能性について悲観的だが、アルフォードは言語化を始めとする象徴化によって、脅威を他者に押し付けることなく表象することができるようになる可能性を示唆している。ただし、大量消費文化が悲劇や喪失や苦しみの不可避性を象徴化する文化的資源を駆逐してしまっているかもしれない。受苦、失敗、犠牲になること、などといったことは、負け組のスティグマを背負う。心理療法も選択肢の一つだが、根本的には社会の変化が必要である。人間の残酷さと脆弱性を包容する文化資源が求められる。聖職者による性的虐待や蔓延する児童ポルノは、深刻な児童虐待が様々な形で蔓延っていることを可視化させたが、儀礼虐待は未だに否認されている。儀礼虐待のサバイバーが夢などを通じて超越的、超自然的体験をすることがあるが、これは外傷化していた自閉‐接触ポジションのもう一つの体験である無限の宇宙への畏敬と人間の脆弱性に開かれるきっかけとなる。

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要約は以上です。

私は儀礼虐待のケースには出会ったことがないと思います。「思います」というのは、私に聞く準備ができていなかっただけで、本当は出会っていたのかもしれないからです。患者やクライエントがある出来事の痛みを本当には引き受けることができず、否認してしまっている、といったことを、私たち臨床家はしばしばケース検討の場で耳にしたり、語ったりします。しかし、外傷体験の深刻さを矮小化し、否認してしまう危険性は、臨床家の側でこそ、注意されるべきことかもしれません。

私たちは臨床家になるとき、暗黙の裡に、自分は助ける側になるのだ(助けられる側ではなく・・)と思い込もうとしなかったでしょうか。患者やクライエントの心的外傷に触れるとき、慎重さが必要なのはもちろんですが、その慎重さは外傷の深刻さを感受したうえでの心遣いでしょうか。それとも、「腫れ物に触る」に近いものでしょうか。もし後者の要素があるなら、その背景には、自分は傷ついていないという想定があるかもしれません。傷ついていない自分は、傷の痛みを本当にはわからないから、傷ついている人には慎重に接しないと、という。つまり、傷ついているのはこっちではない、向こうだ、という想定です。

自分が抱える外傷性の問題に目を向けるうえで、個人分析は貴重な機会を提供してくれます。私は儀礼虐待のサバイバーではないと思いますが、家族が行う宗教まがいの儀式的行為に参加していたことはあります。それはあまり組織的なものではなく、かなり気まぐれに行われるものでしたが、当時は私自身、その効用を信じていました。現在では、それを信じることが、もっと深刻で現実的な家族の問題から目を逸らすことに大いに役立っていたことがよく理解できます。また、笑い話の一つのような扱いになっていた幼少時の出来事(あるいはそれに代表される家族関係)が、自分の自尊心をどれほど削ぎ落していたか気づくこともありました。

しかし同時に、自分が抱える外傷性のテーマがある程度自覚された現在であっても、私の半生を詳しく誰かに話したとしても、多くの場合「よくあること」、「そんなもんだよ」、「もっとひどい家もいっぱいあるよ」、「ふつうじゃん?むしろ恵まれてるでしょ」、と言われるであろうこともわかっています。それくらい、私たちは一般に、外傷の重みを受け止めることが難しいのだ、と言ってもいいでしょう。あるいは、それくらい外傷の外傷たる所以は個別的なものだと言うこともできるかもしれません。

その人の気質、性格、家族関係、家族が抱える歴史的背景、そうしたものを含み込んだ歴史の中で、そのときにそのことが持つ、その人にとっての意味を考える中でしか、外傷の外傷たる所以は実感されないでしょう。儀礼虐待や児童相談所が介入するような明らかな虐待においても、それが外傷体験になりうることは誰の目にも明らかだとしても、どのような意味でどれほどの傷になるのか、ということは個別的にしかわかりません。

臨床家として初心の頃、それほど大過なく人生を過ごしてきた自分が、深く傷ついた患者やクライエントに共感することができるのだろうかと不安に思ったことがありました。今から思えば、能天気というか、おめでたいというか。「大過なくすごしてきた方が、果たしてこの仕事に興味を持ちますかねぇ」と当時の自分に聞いてみたいところです。

しかし笑いごとでもない。この「(自分の人生は)ふつうです」、「ふつうの家庭でした」、「とくに問題ありません」というのは、自分自身を一人の人として尊重することを忘れてしまった患者やクライエントからしばしば聞く言葉ではないでしょうか。また、自分の人生よりも他人の人生に首を突っ込むことに興味を持ってしまった私たち臨床家も、内心で言っていることかもしれません。

「自分は大したことない」という認識は、謙遜のようでいて、実は問題の舞台を他人に移し替える方便かもしれません。外傷の個別性も含め、個である自分を実感した先に、同じく個である他者への関心が芽生えてくるのかもしれません。

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