自閉スペクトラムへの精神分析的アプローチ

 今回取り上げる文献はこちらです。

Rhode, M.(2018)Object relations approach to autism. International Journal of Psychoanalysis, 99, 702-724.

「自閉症への対象関係論アプローチ」といったタイトルでしょうか。対象関係論のいわゆる本場であるイギリスに限定せず、対象関係論的な着想を持つ様々な貢献を歴史的にレビューしている論文です。

まずは要約してみましょう。要約でもかなり長いのですが。

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自閉スペクトラムはカナー型自閉症やアスペルガー症候群を含む広汎な概念となっており、遺伝的な素質が社会的環境と相互作用して様々な現れを呈するというのが大方のコンセンサスとなっている。


自閉スペクトラムへの精神分析アプローチは、象徴機能に問題を抱えた子どもや、自閉的な不安や防衛戦略を持つ他の状態に関して様々な理論的発展を見せているが、現在でも精神分析臨床家はベッテルハイムのような極端な環境論に同意していると誤解されており、精神分析アプローチは自閉スペクトラムには百害あって一利なしと考えられがちである。診断体系が行動的特徴に偏っていることも困難の要因だが、自閉的と見なされる行動は遺伝素質、ホルモンバランス、環境ストレス等、多くの要因で構成されている。


自閉スペクトラムに生物学的、遺伝的要因が主に関わっていることは確かだが、早期の介入によって脳の構造に変化が見られたり、診断のない子どもと区別がつかなくなったりする反応性を見せる子どもも報告されるようになっている。生物学的要因であるということは、変化しないということを必ずしも意味しない。


クラインが分析した4歳のディックは現在から見れば自閉症だが、かなりの改善を見た。治癒要因と思われるのは、解釈の内容というよりも、クラインがディックを人類の仲間として、意味を共有できる相手として積極的に語りかけたことにあると思われる。クラインがディックを分析した当時(1930年)にはカナーの自閉症概念もなく、クラインは自身の理論を用いてディックの外界への無関心を、過剰な攻撃性への不安によって好奇心が制止されたものと理解している。これは(対象との接触の恐怖という意味で)過敏性とも関連している。自閉症の過敏性という見解を取っていたのはメルツァーとタスティンだが、この観点からすれば、自閉症の子どもが見せる無関心さは防衛ということになる。


アメリカの初期の研究で主なものにマーラーの研究がある。マーラーは正常な自閉期、共生期という理論を持っていたが、あくまでも子どもにとって母親が不在だと「感じられる」という点を指摘していたのは重要である。マーラーの共同研究者であるバーグマンは、マーラーの理論に基づいて治療をした自閉症の子どもたちと、彼らが成人後に行ったインタビューの映像資料を残しているが、系統的な効果研究ではないものの、その改善には目を瞠る。ベッテルハイムは自閉症の原因を親が持つ死の願望とし、それが大いに影響力を持ったため、精神分析の人はみんなそう思っていると誤解されているが、たとえばタスティンはすでに、自閉症の原因は親ではなく、自閉症の親はむしろ子どもの治療に大変熱心だと繰り返し指摘している。ベッテルハイムの主張が否定されると、彼の貢献も忘れられてしまったが、彼は自閉症にとっての口を始めとする開口部の重要性や、自分が人であるという感覚、安定した同一性の確立などに問題があることも指摘していた。


ビオンのコンテイン理論、アルファ機能の取り入れによる思考機能の発達理論、ビックの心的皮膚の理論、付着同一化の理論は、自閉スペクトラムの臨床から発展したものではないが、メルツァーやタスティンが自閉スペクトラムに関する理論を展開する土台となった。


メルツァーは、自閉症の感覚性と他者への過敏性を記述した。自閉症の子どもは異なる感覚や感情を統合することができないので、受身的にバラバラになり、最も印象の強い感覚にくっつくとし、これを「分解dismantle」と呼んだ。これはマークラムらの「強烈な世界理論intense world theory」に通じる考えである。また、メルツァーは二次元性の概念を導入した。自閉症の子どもは自己と対象の三次元性という概念を持たないので、投影同一化に基づくコミュニケーションができず、対象に付着的に同一化するしかない。言語の語彙的レベルと音楽的レベルを区別したこともメルツァーの貢献である。これはトレヴァーセンのコミュニカティブな音楽性の考えとパラレルである。


タスティンはメルツァー同様に自閉症の感覚性を強調した。また彼女は自閉症の苦痛は迫害的というより実存的であるとし、対象との身体的分離性への脆弱性、つまり養育者とは別の身体であるという現実に対して、自分の身体の一部を剥ぎ取られたような痛みを感じると述べた。このような外傷体験に対して、自分はバラバラではなくまとまっていると強く感じるために固い物に執着したり(自閉対象)、自分で自分を慰撫できるように柔らかい表面を持つ物に頼ったりする(自閉形態)。タスティンは、自閉的な子どもと精神病的な解体を示す子どもの区別も論じた。タスティンは当初、マーラーの「正常な自閉期」という概念に依拠して、自閉症をそこへの退行としていたが、後の発達研究の知見を受け入れ、自閉症でない子どもは生後まもなくから親と関係を持つとした。また、タスティンは一貫して自閉症の子どもの体験を記述しており、実際に不適切な養育が行われたわけではないと強調している。


アルバレズはより受動的なタイプの自閉症を記述した。そのようなタイプの自閉症はひきこもっているというよりは「引き出されない」のであり、通常の呼びかけでは彼らの注意を引くことはできない。そこでアルバレズは積極的に呼びかける「再生」技法や、隠された意味を明らかにするのではなく、やっていることをそのまま述べる記述的解釈などの技法を発展させた。


ハーグはタスティンやメルツァーが記述した自閉症の身体的な分裂や、身体的接触と心理的接触の統合困難などの考えを発展させて、身体各部の統合性の獲得を発達上の重要な里程標とし、自閉症におけるその困難を指摘した。


ウゼルは自閉症を「他者性の病理」と呼び、心的両性性を概念化して、自閉症における転移はコンテイン機能の両性性的構成要素(部分対象以前)に対して展開すると読み解いた。またウゼルは自閉症リスクのある子どもの家庭に対する治療的乳幼児観察を重視し、それはル・シュバリエの母子共同治療につながっている。これは理論の違いは大きいが、マーラーらの治療と実際には似通っている。イタリアやスペインでメルツァーとタスティンの影響を受けた研究者としては、マイエロが自閉症の出生前外傷や出生前のリズムや聴覚的経験の障害の可能性に言及している。ブラジルのフォンセカとブッサブはタスティンの「私でないもの」という自閉症の経験を発展させて、対話空間dialogical spaceの不全を記述したが、これはビービー、ラックマン、ヤッフェの相互作用構造interactional structureと同様のことである。自閉症においては、空間は他者によって占められてしまうので、自閉症者は消されるか、締め出されると経験される。


アルゼンチンのローゼンフェルトは、治療終了時には通常学級に通うことができるようになった自閉症の子どもの記録映像を残している。また、自閉症のカプセル化は外界の嫌なものを躱すためだけではなく、よい経験の保存の機能もあると指摘した。自閉症に特徴的な身体像、身体感覚はいろいろな研究者が指摘している。融合の恐怖、管状の身体像、身体的な逆転移。ダーバンは自閉症の発達の鍵は、治療者が「心と身体の全体で存在している」ことにかかっているという。自閉症の無垢の自己は、ときに真正に、ときに借り物をよすがとして現れる。


タスティンは自閉症以外の精神医学的問題を示す子どもや成人にも診断閾下の自閉的傾向が認められることを指摘した。それらは心身症、神経性やせ症、不登校、学習障害、遺尿、遺糞などである。シドニー・クラインは精神医学的な問題のない専門職などに見られる自閉のカプセルを記述した。彼らは表面上の改善にも関わらず、治療者や自分との接触がなく、分離性を否認し続ける。成人の自閉的傾向はバロウズやミットラーニらのアンソロジーによく論じられている。なお、オグデンの自閉−隣接ポジションは、タスティンが「正常な原初的感覚性」と呼んだものを自閉と呼んでいる節がある。また、レイが記述したような境界例患者における極度の身体的恐慌状態は、自閉症にもよく見られるものである。


言語を介して「心を読む」ことを含む精神分析アプローチはそもそも自閉症に適さないという指摘がある。抑圧モデルで関わるのは実際に不適切だろう。対象関係論は身体経験や感覚経験などもっと原始的な水準に関わろうとしているのである。いずれ空想を扱えるようになる患者もいるが、精神分析アプローチには反応しない患者ももちろんいる。家族背景のアセスメントも重要である。


技法の修正は絶えず試みられてきた。クラインも積極的な技法を用いたし、メルツァーもタスティンも、子どもの注意を引けるなら身体接触をかなり許容していた。スターンは照らし返しによる生気情動への調律を、アルバレズは解釈が事実の陳述と受け取られないように枠付けることを工夫した。転移解釈の位置づけには議論がある。メルツァーはあくまで転移を中心に据え、自閉症の中核部分によって転移の流れが妨げられると述べたが、タスティンは自閉症の転移では治療者は対象というより機能であると述べた。後者はウゼルのコンテイン機能の男性的側面と女性的側面という考えに発展している。アフマダらは侵入的になるなら転移解釈は避けるべきで、それよりも治療者が患者に向ける注意の質が重要であるとした。この考えは、治療的乳幼児観察で改善が見られることと関連している。


自閉症の防衛戦略はいわゆる自我の防衛機制というよりは、自分を保護するための身体的戦略である。自己愛構造と自閉的引きこもりの区別は子どもにおいては意見が分かれるところだが、成人においては投影同一化と付着メカニズムの違いとしてかなり区別できる。精神病的な現れは患者が分裂を使えることを示すが、自閉症が改善してきたときに精神病的な現れを示すことがある。


自閉症の子どもは外傷経験に脆弱であり、またある経験が外傷的になってしまう閾値も低い。親が外傷経験について物語れるようになると、自閉症の子どもの反応性が改善することもある。このことは、親が自閉症の原因であることを意味しないが、親の内省機能が自閉症の子どもを援助することができることを示している。逆に、自閉症の脆弱性は親に対するよいイメージを阻害するかもしれない。たとえば、聴覚過敏という特性は、親との通常のやりとりを脅威的なものと体験させるかもしれず、脅威的なものと見做された親は子どもと豊かな関わりができると信じられなくなるかもしれない。これは、自閉症ではない子どもの治療において親への支援が重要であるのと同様に、自閉症の子どもにおいても親への支援が重要であることを意味する。


自閉症への精神分析アプローチとその他のアプローチは、実質的には似たようなことを記述しているのである。異なる理論的アプローチが同じようなよい治療結果をもたらすのは、何を言うかよりも、注意と相互作用の質が重要であることの証左であろう。

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以上が要約になります。

本文献は自閉スペクトラムへの精神分析アプローチの歴史のレビューであり、各理論についてこのレビューだけで理解を深めるのは難しいように思われます。どちらかというと、各理論について学んだ読者が、全体の見取り図を描くのに役立つ文献と言えそうです。

さて、各理論についてちょこちょこ取り上げていくのは、屋上屋を架すことになりますので、ここでは私の臨床経験からの連想を少しだけ記したいと思います。

自閉スペクトラムの治療というと、やはり子どもの臨床が中心に語られがちです。しかし、臨床現場あるいは社会の現実としては、成人における診断閾下の自閉スペクトラム(以下AS)のアセスメントといかにアプローチするかという問題が非常に広範に見られるように思います。この問題は以前に比べてだいぶ理解されるようにはなりましたが、依然として臨床家の間で共有事項になっているとは言い難く、普及と啓蒙が求められるところでしょう。

しかも、この「診断閾下」はあくまで最初に患者やクライエントが臨床家のもとに訪れた時点での話です。適切なアセスメントと関わりによって自閉的特徴が本人や家族や他の専門家にもよく理解されるようになり、結果的に診断に至ることも多く、その意味でも知識と経験の普及と共有は日本の臨床サービス全体の底上げのためにも重要です。

さて、成人の自閉スペクトラムへの精神分析治療というと必ず引用されるシドニー・クライン(1980)ですが、自閉の「嚢胞」や「カプセル」というモデルが果たして現在でも広汎なリアリティを持つのか否かは些か疑問です。

そのモデルが示唆しているのは、パーソナリティの一部に自閉的部分が格納されていて、神経症的あるいは非自閉的部分の発達や成長を妨げている、という発想でしょう。しかし、成人のAS臨床の実感からすると、非自閉的部分が機能しているというよりは、自閉的なメカニズムは常に作動していて、それが神経症的な表現型をなすこともあれば、より典型的な自閉的表現型をなすこともある、というように思えます。つまり、神経症的な進展や展開に見えるものも、常にASの体験世界においてどのように体験され、どのような意味を持つのか、という観点から理解される必要があるのではないか、ということです。

実際、シドニー・クラインの論文に出てくる臨床例もそのように理解することもできるように思われます。たとえば、分析治療でよくなったので料金を上げてもらってかまわないと提案してきた患者が、吸血コウモリと、輸血用チューブを足に挿入されてもがき苦しむ赤ちゃんの夢を見ます。シドニー・クラインはこれを分析家の貪欲さへの迫害不安として解釈しています。しかし、そもそも「よくなったから料金を上げていい」という発想自体が、取り入れ体験の非象徴性(たくさんもらったから先生は貧しくなったとか、心で感謝を伝えるということがピンとこないとか・・)を示唆しますし、「足に挿入された輸血チューブ」という表象は、身体感覚の優位性や自己と対象の共存困難性を表現してもいるようです。

また、シドニー・クラインが詳細に記述した事例においても、身体の両側にこぶができる夢など、精神病的な分離の否認というよりは、身体的分離性の困難という表現に見えるものがあります。シドニー・クラインは基本的に投影同一化を基礎とした原始的防衛機制の激しいやりとりを想定して内的対象関係を解釈し続けるのですが、患者の反応を見る限り、あまり解釈の内容にピンと来ていないように見えます。シドニー・クラインはそれを、投影同一化に基づくやりとりへの接触が自閉的嚢胞によって断たれているという線で理解しているようなのですが、現在からみると、患者の方は常に洗練された自閉的様式で機能していて、解釈のわかるところだけ肯定しているようにも見えます。

つまり、シドニー・クラインは自分の理解と患者の進展が「平行線」であって、それが交わらないのは自閉的部分による妨害のためだと考えていると思われますが、実際には、患者は自閉的体験様式という「円」を描いており、その円に接するようにシドニー・クラインの投影同一化を基礎とした理解という「接線」が走っていて、その接点でのみ、二人の接触が生まれている、というようにも見えるようです。

福本(2016)は、シドニー・クラインの事例について、記述的なレベルでの自閉的特徴はかなり限局的で、三次元的なやりとりが可能であり、象徴的な解釈によって進展もあるとし、こういう事例においてこそASをASDから分ける意義があり、記述的レベルで自閉的特徴が目立つ場合はASDとして対応する方が適切な場合が多いと述べています。

とはいえ、シドニー・クラインが詳述した事例においても、言語発達の早熟、知的会話への偏向、情緒表現の困難など、現在であれば少なくとも自閉的傾向の可能性を疑う記述的特徴は示しています。診断は、記述的特徴の強弱もさることながら、環境との兼ね合いや自閉性が自我違和的かどうかによって柔軟に考えられてよいでしょう。

なお、シドニー・クラインによる、知的会話の豊かさと情緒接触の不在という自閉性の現われを早めに感知しないと知的遊戯のような治療が遷延してしまうという主旨の指摘は現在でも有効であり、成人ASの自閉性をアセスメントする上で重要なポイントです。シドニー・クラインはそこまで言っていないようにも思われますが、この「知的遊戯」は「転移解釈と(付着的な)一時的感情反応」という形を取ることもあるということに、(転移解釈が好きな)精神分析臨床家は特に注意が必要です。「内的対象関係の転移が展開している」という理解は治療者の空想という一人相撲であった、ということは成人のASの治療において陥りがちなことです(井元, 2017)。

ここでロウドも取り上げている、自閉症の転移は機能に現れる、という視点は大いに治療関係理解の助けになってくれるでしょう。成人のASの治療においても、「あなたは私がどうしたこうしたので、これこれと感じていて・・」という類の解釈はあまりリアリティがありません。どちらかというと、クライエントの生活の中で治療者がどういう機能を果たしていて、それがあったりなかったりすることでクライエントの感覚にどのような変動が生じているかという文脈で考える方が、クライエントが人を含む様々な対象との関わり方について自己理解を深めていく助けになるように思われます。

「自閉的部分と非自閉的部分」というモデルは、自分の自閉性が自我違和的であって、それを何とかしたいと思っている患者やクライエントに対しては有効なモデルかもしれません。しかしそれだけでなく、自閉的機能様式や体験様式とその発展をそれそのものとして概念化することもAS的生き方を支援する上では大切な視点ではないかと思われます。社会不適応の程度がASD中核群に比べてそれほど大きくないASの人たちにおいては、とりわけそのような、その人の存在様式としてのASという観点が必要ではないでしょうか。

そのとき、今回取り上げたロウドのレビューでも取り上げられていた自閉症における身体感覚の重要性、優位性は、成人のASにおいても常に心に留めておくべき視点です。さきほどご提示した視点と似たような発想になりますが、象徴機能の発達によって身体感覚優位性が弱められていくというよりは、象徴機能の助けを借りて身体感覚の意味づけが洗練されていくと考えるほうが、存在様式としてのASという理解を発展させてくれるように思われます。成人のASの治療においては、どれほど象徴的に理解可能な素材が提示されていても、そこには常に身体感覚に根差す意味合いがあるかもしれないということです。

このテーマは話し出すとキリがないので、今回はこのあたりで終わりにしておきましょう。

文献

福本修(2016)成人症例の自閉性再考.福本・平井編 精神分析から見た成人の自閉スペクトラム―中核群から多様な拡がりへ.誠信書房.40-64.

井元健太(2017)自閉の輪郭を描く.精神分析研究,61(4),491-501.

Klein, S. (1980) Autistic Phenomena in Neurotic Patients. International Journal of Psychoanalysis, 61, 395-402.

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