父親の産後鬱

 父親の産後鬱に関する文献をご紹介します。

こちらです。

Sarkar, S.(2018)'Post-natal' depression in fathers, or Early Fatherhood Depression. Psychoanalytic Psychotherapy, 32, 197-216.

まず要約してみましょう。

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産後鬱は父親にもある。子どもの愛着は父親との間でもごく早期から発達するため、父親の産後鬱は子どもの情緒発達にとっても重要。リスク要因はパートナーの鬱や、パートナーとの関係不良。

以前は父性は男らしさと混同されがちであったが、女らしさをめぐる見直しに伴って、父親も男らしさからの圧力から独立して子どもとの父性的関係を自身に統合しようとすることが注目されるようになっている。

古典的精神分析理論は父親中心主義かつ男根中心主義であった。フロイトはいち早く人間の両性性を指摘したものの、伝統的な男らしさや男性役割に無批判であり、性同一性、性自認同一性、性役割期待、性愛的対象選択を区別しなかった。近年は、フロイトは父親が母親(妻)をめぐって子どもに向ける嫉妬を考慮していなかったことが指摘されている。

母親の愛着パターンが子どもへの養育行動に影響し、子どもに形成される愛着パターンを予測することはよく研究されているが、父親にも同じことが言えるのではないか。

事例1。中年男性。夫婦の仕事の都合で患者が主たる養育者となり、育児の負担から希死念慮を発症。子どもを一人残していくという空想に耐えられないとの訴え。男性は育児に関わらない文化的背景。治療では、育児へのコミットの度合いに関する妻への怒りと同時に、自分は何でもできるという万能空想と育児は女性でもできる簡単な仕事という蔑視、育児の偉大さを認められないことが反転した結果としての自己嫌悪などが明らかに。

事例2。中年男性。計画的にもうけられた第一子出生後、抑鬱症状を発症。彼は育児に直接関わりたいと思っていたが、父親や友人からは、彼の育児への献身を軽蔑されていた。また、実際子どもが生まれてから妻との関わりが減り、子どもを通してしか妻とやりとりできなくなったことに不満や怒りもあった。抑鬱症状によって臨機応変な決断ができないことも相俟って、彼の育児は厳格なルーチンに拘るものとなり、結果的には妻と母親によって直接の育児から手を引かされてから、抑鬱症状は軽快した。

事例1は、乳児が患者に完全に依存しており、一方で患者をケアする人はいない状況で、育児の重責は患者に乳児へのアンビバレンスをもたらした。妻に対しても、育児に関わらない不満と育児のことで妻に文句を言うことへの罪悪感との葛藤があった。患者の生育歴からすると、彼が父性的役割を学ぶ機会はなく、子の出生と同時に突然父性を統合するプレッシャーにさらされたことになる。事例2は、事例1よりは軽症だが、父親から侮蔑されただけでなく、母親までもが妻と組んで、彼の育児への関心をサポートしなかったことで、見捨てられたと体験し、退行したものと考えられる。また、見捨てられたと感じた彼にとって、両親の注目を一心に集める我が子は不公正の感覚を刺激したと思われる。

愛する相手に敵意を抱くことは誰にとっても難しいことだが、その相手が弱き子どもであると、親の罪悪感はいや増す。子どもへの敵意や怒り、不満、不快を自覚できないと、子どもに投影されて、子どもから敵意を向けられていると体験され、親としての自信も揺らぐ。父親の場合、文化的にも母親の方が主たる養育者で子どもにとってのよき親であると見なされやすいので、パートナーのサポートなしに父親が子どもへの不満、不快を自覚しながら親としての役割を引き受け続けることは大変難しい。また、伝統的な男らしさは依存を弱さと意味づけるので、男らしさに強く縛られ、自分自身の依存的ニーズを十分に満たされていない男性が父親になると、子どもの依存的ニーズを理解し受け入れることが難しくなる。女性性や母性的アイデンティティを自身に統合することができると依存的ニーズに対応しやすくなるが、自身の男性性を安定的に統合できている男性の方が、女性性や母性的アイデンティティを自身に受け入れやすい。

子どもやパートナーへの怒りを適切に内在化し、表現することができないと、怒りが自己へ向かって(自己批判)抑鬱的になったり、不適切な形で子どもやパートナーに向かったりする。パートナーへの初めての暴力が妊娠期間中や産後であることは稀ではない。いつでも冷静沈着に、他人の助けを借りることなく、自分一人で成功を収める、という覇権主義的な男らしさに縛られていると、怒りを自己に統合することが難しくなる。すると、子どもに必要以上に厳しくなったり、逆にそうした自分を自覚しないですむように子どもと関わらなくなったりする。

子の誕生は生物学的には男性であることの肯定であるにもかかわらず、パートナー、仕事、趣味の時間を奪われたり、それまでの伝統的な男らしさの追求が求められなくなるという点で、心理的には去勢体験となりうる。心理的に去勢を体験した父親は、母親の子宮や乳房を介した身体的で必要不可欠な親密なる子どもとの結びつきに対して羨望を抱くようになる。これが、父親の産後鬱を悪化させる。

自身の母親との間で不安定な愛着モデルを内在化した男性にとって、母親的役割を引き受けることは産後鬱のリスク要因となる。自分がもらえなかったものを与えることをめぐるアンビバレンスが、義務的で懲罰的な育児につながることもある。臨床に携わる専門職は、母親の産後鬱だけでなく、父親になることをめぐる早期の抑鬱と、子どもの発達に与えるその影響に注意すべきである。男性患者における依存や弱さは、性役割に関するステレオタイプによって見逃されやすい。

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要約は以上になります。

著者は父親になった男性が父性を身に着けていくことの難しさについて再三指摘するものの、父性とはなにかについてはそれほど明確にならないまま終わっています。

その理由の一つは事例にも現れているように思われます。二つの事例はどちらも、環境的サポートと内的な未成熟性の問題のようであり、男性あるいは父親に特有の問題を抽出しているわけではありません。パートナーや原家族の支えが得られず、子どもに対する怒りを抱えることに耐えかねて抑鬱的になることや、不安定な愛着パターンないしは三者関係を対話的に実らせることができない(エディプス葛藤をワークスルーできていない)未成熟性を抱えた人が、子どもやパートナーへの嫉妬や羨望に苦しむことは、女性あるいは母親にもしばしば生じる問題です。

たしかに、子どもにパートナーの関心を奪われることから子どもに嫉妬したり、パートナーのほうが子どもといい関係を持っているように感じてパートナーに羨望したり、という問題は父親に生じることが多いかもしれません。しかし、それは伝統的に母親が主たる養育者になることが多かったという社会的現実の結果かもしれません。将来的に、母親と同程度に父親が育児に関わるようになってくると、母親にも父親と同程度にそのような嫉妬や羨望の問題が生じることが考えられるでしょう。

また、こうした子どもやパートナーへの嫉妬や羨望の問題は、親になるときに生じることが多いとは言え、親になることの本質的な問題と言えるかどうかは微妙です。子どもが生まれることはあくまで誘因であり、それをきっかけとして、もともと潜在していた三者関係に耐えられないというパーソナリティの未成熟が顕在化したというのが実態でしょう。

では、父性とはなにか、と考えるときに、もう一歩踏み込んで、父性と母性を分けて考えることにどれほどの意味があるのか、と考えてみることは興味深いことと思われます。たとえば、ステレオタイプに母性=一体性、父性=分離性と考えてみましょう。たしかに、母親が子どもとの一体感を醸成しつつ、父親がそこへ割って入って子どもを社会化するという構図は慣習的な家族イメージに馴染みやすいかもしれません。

しかし、どちらも過剰になれば問題だということもまた、臨床上おなじみのことでしょう。母親が母子一体感にのめり込んで子どもを手放せなくなることも、父親が子どもに厳格にルールを押し付けて萎縮させることも、不登校の背景要因としてよく出会います。そして、どちらの場合も、パートナーのサポートの欠如や、パートナーとの関係不良がつきものです。

さらに、よりミクロな視点で言えば、一体感を醸成する母親も、子どもと分離している部分を持っていないと、子どもに必要な世話を現実的に継続することができませんし、割って入る父親も、子どもの気持ちがわからなければ割って入るタイミングを間違えます。

結局のところ、母性と父性を分けてみたところで、育児にはどちらも適度に必要ということです。実際、母性=一体性、父性=分離性を二つ合わせれば、子どもに共感しつつ同一化しすぎないでケアするという、スターンが描写した機能する親の心の状態に近づくわけで、これが親機能あるいは養育機能ということでしょう。ですから、父性と母性を分けるのではなく、養育に必要な心的機能とはなにかを抽出するほうが様々な家族への適用範囲が広がるのではないでしょうか。

もちろん、両親がそろっている場合には、二人で養育機能を分担することになるわけですが、その場合も、「母親だけど父性的役割をやっている」、「父親だけど母性的役割をやっている」といった葛藤的な言い方よりも、「うちは父親がこういう役で、母親がこういう役」といった言い方のほうが、必要な心的機能をそれぞれの適性に応じて分担するという感覚にしっくりくるでしょう。

さて、論文に戻りますと、この論文の意義は、母親や女性に特有の問題だと思われていたことを、父親や男性にも関係があることと示したことにあると言えるでしょう。ただ、著者のサーカーもチラッと言及していることですが、そもそも生理的要因が関わっている母親の産後鬱と、主として心理・社会的要因からくる父親の産後鬱を同列に論じることには無理があります。

出産をめぐる身体的・生理的負荷の大きい母親に比べれば、父親には余裕があるわけですから、母親同様に余裕がなくなってしまう問題を取り上げるのは、父親や男性ならではのテーマを抽出するには些か悪手というか、下手をすると、「男だってつらい」式の言い訳に使われかねません。

もし父親や男性ならではの、育児をめぐる特殊性や心理的テーマを取り上げようとするなら、出産において身体的負荷を免れているために生じる心理的包容力に注目することが、よきヒントになるのではないかと思われます。

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