エコー

今回取り上げるのはこちら。

Savery, D. (2020) The character Echo as a symbol of the absent female voice in psychoanalytic literatures. British Journal of Psychotherapy, 36, 621-635.

「エコー:精神分析の文献において女性の声がないことにされていることの象徴」

といったタイトルでしょうか。

「ナルキッソスばっかり取り上げられてること自体、ナルシシズムの問題だろう」という視点はなかなか興味深いです。まずは要約です。

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ナルシシズムはオウィディウスの「変身物語」にある「エコーとナルキッソス」に由来する概念であり、精神分析の文献でも数限りなく取り上げられてきて、ナルキッソスもさぞかし鼻高々だろうが、もう一人の主人公であるエコーはせいぜいナルシシズムの影という程度の扱いで、それ自体に光が当てられることはなかった。

オウィディウスの元々の物語では、エコーも主人公の一人としてしっかりフィーチャーされているのに、後世の精神分析の理論化の過程で、あるいはポップカルチャーにおいて、ナルキッソスが水に映った自分の姿に魅了されて弱っていく場面ばかり取り上げられるようになってしまった。実際、ナルシシズムの病理を抱えた人がいかに相手を自分の物語の一部としてしまうか、臨床家諸氏はよくご存じだろう。そうした臨床経験の中で、私はナルキッソスの影で自らの声を失ったもう一人の主人公、エコーを見出してきた。

ナルシシズムに関する精神分析的研究に比してエコーイズムの研究が欠如していることそのものが、ナルシストの支配下に入ってしまうエコーイストのテーマの現われであり、ともすると、エコーもナルシシズムの病理の一部であるとか、エコーはナルシストと共依存関係にあるとか言われてしまう。こうして、エコーイストは彼ら自身の主体を失っていくのである。本論で私は、エコーを主体として再評価し、ナルシシズムの病理の一部という認識から、エコー‐ナルシス・コンプレックスへのパラダイムシフトを通じて、エコー自身の声を取り戻したい。

オウィディウスの元の物語をよく読んでみよう。

ジュノーは夫であるジュピターがニンフと浮気しているところを押さえようと待ち構えていたが、いたずら好きのエコーが長々とおしゃべりしている間にニンフは逃げおおせてしまった。それに怒ったサターンの娘(ジュノー)はエコーに呪いをかけて、エコーは相手が言った言葉の最後の部分をオウム返しすることしかできなくなってしまった。エコーは自分から話し始めることができず、誰かが話してくれるのを待つしかなくなったのだ。

ここで重要なのは、エコーが自分自身の声を失い、相手を真似る以外の関わり方ができなくなり、自分自身で存在することができなくなったということだ。では、エコーが自分の声を持たないことを知った後のナルキッソスの反応を見てみよう。

「触るな!お前に弄ばれるくらいなら死んだほうマシだ May I die before/ You enjoy my body」ナルキッソスは叫んだ。エコーはただ「私を弄んで enjoy my body」と返すのみ

ここは、ジュピターが拒絶される女性の気持ちも考えずにニンフの身体を弄んでいたことと詩的に共鳴している。

拒絶されたエコーは頬を赤らめて森の中へ逃げ去った。彼女は恥ずかしさに身を隠し、それからというもの、一人寂しく洞窟の中で暮らした。しかし、彼女の愛は、拒絶の痛みとともに、ずっと残り、なおのこと大きくなっていった。

エコーは痛みを糧にしているようであり、オウィディウスはそれを愛だと理解している。それならば、愛とは際限なく破壊的である。

哀れなエコーは苦悶で眠ることもできず、痩せ細っていった。肌は乾いてしなび、肉体を巡る温かな血はすっかり湿り気を失った。

…骨と声だけが残り、やがて声だけになった。骨は石になったと言われている。森の奥深く見失われ、山に響くエコーの声に、彼女が生きていることを聞き取ることができるだけである。

神話の最後のところで、エコーはナルキッソスの死を我がことのように経験するが、ここで彼女が彼の哀れなため息に共鳴しているのが見て取れる。

エコーはナルキッソスが弱っていくのを見て、まだ憤慨していたが、やがて哀れみに変わっていった。この惨めで不幸な若者が哀れなため息をつくたび、彼女は自分の声で、哀れなため息を返すのだった。

ナルキッソスを主題に取り上げた文献は山ほどあるのに、エコーを主題として取り上げた研究がほとんどないのは、彼女が自分自身で存在できないことと関係しているだろう。エコー的な人は生きるために誰かに依存せざるを得ず、そのために、ナルシシズムの問題の一部とみなされたり、共依存的だと見なされたりしてきた。しかし重要なのは、自分が生きていないことに自覚的である人とともにいるのはどんな経験なのかということである。

ローゼンフェルトは受身的で不活発で何も言わず、自分では何もできず、ほとんど死んでいるようで、分析家の生気に依存しているような患者について、ナルシシズムの延長として理解しているが、私ならエコー的な人だと見る。ローゼンフェルトがナルシシズムだと言ってしまうのは、彼を消耗させるような逆転移が耐えがたいからで、そこにある不安は、今にも消滅してしまうという存在論的な不安だろう。

存在論的な不安に注意を向けたのは実存分析である。ホルツハイ‐クンツは、ハイデッガーの言うような「日常」によって自分自身であることを忘れることができない人を「哲学者にならざるを得ない人」と呼んだ。彼らはナルシシズムの病理を抱えた人と有害な関係を持ち、彼らの代理人を務めることによって存在論的不安から逃れようとする。つまりそこにあるのはナルシシズムの一部ではなく、実存的な不安なのである。自分自身であることの不安や死せる運命といった人間の条件は、癒すこともワークスルーすることもできず、ただそれに対して「哲学的な耳」を傾けることしかできないと実存分析は提起する。エコー的な人とのワークで最初に出会うのは、治療者が彼らを実在の人と見なして関わろとすることへの恐怖である。「あなたが存在していることが、あなたの存在を脅かしているのですね」という妙な解釈が、患者にとってはとても納得のいくものだったということがある。彼らは他者(しばしばナルシシズムの人)を自分の中心に据えることによって、この不安から逃れようとする。彼らが自分の存在や行動の責任を引き受けようとし始める一つのサインは「自分の声」を取り戻すことである。

エコー的な人は自分自身であることを諦めており、外的世界においても内的世界においてもナルシシストの言うなりになっている。そこでエコーイストの声が聞き届けられるためには、治療者側にも声なき声に対して開かれた心であることが求められよう。子どもの分析におけるように、コミュニケーションの媒体を言語に限らないということも重要である。なぜなら、言語や流暢さこそ、エコーイストの中でも最も発達が停滞しているものだからである。

神話というものは、人間の分裂排除された根源的恐怖のコンテイナーと考えられる。神話で語られることによって、α要素に変形され、たとえば近親姦や親殺しという欲動を、エディプス・コンプレックスという形で精神分析的に考えることができるようになるわけである。だとすれば、エコーはまだそのような変形を経ていないのかもしれない。

2016年にリサ・ドワンがベケットの「ノーのナイフ」を演じたときのセリフがある。様々な場所に閉じ込められた女性主人公が語る。

「行けるならどこへ行こう。なれるなら何になろう。声があるならなんと言おう。これを話しているのは誰だろう。」

このセリフは私が会ってきたエコー的な人の存在論的な不安を呼び起こす。

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要約は以上になります。

論文の主題はナルキッソスばかり注目されてエコーが見えなくなっているということですが、精神分析業界全体がナルキッソス(自己愛の分析)に魅せられて物語の全体が見えなくなるナルシシズムの病理に陥りがちだという含みもあるでしょうか。

他のどの学派よりも自己愛の病理を徹底的に分析してきた自分たちの姿に見惚れているとしたら、その姿は自分に見惚れるナルキッソスとパラレルですし、ナルキッソスに魅せられてナルキッソスの問題ばかり取り上げているとしたら、その姿はナルキッソスに恋焦がれて苦しむエコーに似てくるかもしれません。

臨床的には、自己愛的な男性に支配された受身的で非主体的な女性患者に光を当てたい、彼女たち自身の声を取り戻したい、ということのようです。彼女たちが自分の声を上げないのは主体を引き受けることが怖いからで、結局は自己愛的な男性の支配に依存しているのだ、という理解に異を唱え、彼女たちの恐怖は自分が存在しているのかどうかといったもっと根源的なところにあるのだということです。

したがって、光を当てているとはいえ、取り組むべきテーマがポジティブになったわけではないようです。自己愛パーソナリティの一部だと思われていたものが、実はより根源的な恐怖への防衛であったという理解なわけですから。

また、女性の声ということでいえば、エコーが声を失う経緯も注目に値します。エコーが声を失うのは、ジュピターの浮気相手を逃がしたことでジュノーの怒りを買い、罰を受けたからです。ここには、夫の悪事を直接攻撃できない妻や、そのとばっちりを受けるのもまた立場の弱い女性(エコー)であるという構図が見えます。男性の悪事として始まったのに、どこまでも女性の悲劇が連鎖していきます。ここで失われている女性の声は、「悪い奴を悪いと言うこと」でしょうか。ジュノーはエコーに八つ当たりしていないで、探偵さんに浮気調査を依頼したらよかったかもしれません。

あるいはまた、ジュノーを嫉妬深い母親と解釈するならば、嫉妬深い母親に睨まれて父親とのよい関係を育むことができなかったために、好きな男性に自分からアプローチすることができなくなってしまった女性(エコー)というストーリーも浮かび上がるでしょうか。

ところで、エコーは声を奪われました。つまり、元々は自分の声を持っていました。しかし、著者のセイヴァリーが臨床的に論じようとしているのは、そもそも自分の声など体験したことがないような患者も含んでいるように思われます。

その場合も、ジュノーとのエピソードを考えれば、乳幼児期まで遡れば声を奪われた過去が見つかるのだと主張することもできるでしょう。しかし、そもそも「主体」や「自分の声」といったものとは無縁の人生を歩んでいるような人もいるのではないでしょうか。そういう人はそもそも主体や自分が問われる分析治療を受けたりしないだろうとも言えますが、何かのきっかけで治療につながる場合もあるでしょう。

そうしたケースにおいても、「主体」や「自分の声」を「取り戻す」(そもそもなかったのに?)ことが目標になるのでしょうか。あるいは、「主体」というものがない世界線(失われたのではなく、最初からそういう概念がない世界)を知っていくことも重要な臨床研究であると言うこともできるでしょうか。

明確な結論を出すのではなく、読者の思考を刺激するような論文でした。

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